新しく選ばれたばかりの岸田首相も「真鍋淑郎氏のノーベル物理学賞の受賞を心からお慶び申し上げます。日本における研究活動の積み重ねを基に、海外で活躍されている研究者の独創的な発想による真理の発見が、人類社会の持続的な発展や国際社会に大きく貢献し、世界から認められたことを、日本国民として誇りに思います。」と賛辞を送った。
おりしも、東京オリンピックで日本人の史上最大のメダルラッシュで湧いていたところに、続いてのニュースでコロナ禍の陰鬱な世相を吹き飛ばす朗報にメディアは「日本人は誇らしい」という報道姿勢であった。
50年以上前に三島由紀夫が「目覚ましい日本経済の復興と発展が日本人の鼻を高くさせ、プライドをくすぐり、いい気なナルシズムが横行している。下手に外国のいいところを紹介し、日本はこういうところが劣っているとくさそうものなら、右からも左からも、国賊呼ばわりされかねない、矮小なナショナリズムの国民意識が頭をもたげている。」というようなことを書いていたが、その傾向は50年後の現在、SNSの巨大な展開で、ますます拍車をかけている。
真鍋博士は1958年、26歳ですでに米気象局の研究員として渡米、その後米国籍を取得して、日本国籍ははく奪されている。筆者もこのニュースで初めて知ったのであるが、日本の法律では、成人した日本人が、外国の国籍を取得すると、本人の意思確認もしないまま、自動的に日本国籍がはく奪されるということである。アメリカで生まれた、両親がどちらか日本人であれば二重国籍が許されるが、自分の意志での国籍取得は、国籍はく奪で、海外に渡った日本人の研究者やビジネスパーソンが仕事上の理由からやむなく、居住国の国籍を取得して日本の国籍が失われたことを後で知るというケースは多いとのことである。外国籍は生活上取得したが日本人をやめたわけではないと、「国籍はく奪条項違憲訴訟」が起こされているが、今のところは合憲という判決しかないそうである。
話しを元に戻すが、真鍋博士は受賞後のアメリカでの記者会見で「国籍を変えた理由は?」と聞かれ、笑顔でこう答えている。
「日本では人々はいつも他人を邪魔しないように気遣って生きてます。とても調和を重んじます」
他方、アメリカでは
「自分のしたいようにできます。他人がどう感じるかも気にする必要がありません。私のような研究者にとっては、アメリカは素晴らしいです。自分の研究のために好きなことができます。私は人生で一度も研究計画書を書いたことがありません。自分の使いたいコンピューターを全て手にいれ、やりたいことを何度でも出来ました。」
と比較した上で、日本の話に戻り
「日本人がイエスと言っても、それは必ずしもイエスを意味しません。実はノーであることに気を回せということもあります。」
「それが帰りたくない理由のひとつです。何故なら私は他の人と調和して生きることが出来ないのです。」
と会場から笑いを誘った。ユーモアに包んでいたが日本の研究風土に対する痛烈な批判が読み取れた。
他の記者会見でも政策決定者と学問研究者とのコミュニケーションの取り方にもっと深く考えを巡らすべきではないかということもおだやかな口調で再三指摘をしていた。これを日本学術会議の反対意見を締め出す任命問題と絡める意見もあるが、むしろ真鍋博士自身が1997年に帰国して、科学技術庁の研究プロジェクトの研究領域長に就任しながら、わずか4年で辞任して再渡米した際の経験からの言葉と思われる。
博士は行政との報告や予算計画に時間を取られ、また役所の縦割り行政のため、他の研究機関と思うように共同出来ない不自由さにあきれ、日本の研究風土に失望して辞任したといわれる。
こうしてみると真鍋博士のコメントの多くは、イノベーションを背負っているはずの日本の研究者が置かれている環境に関する、とてつもなく深刻な問題を浮彫りにしているように思える。
予算獲得しやすい分野は今すぐに役に立つ研究である。好奇心に突き動かされて時間をかけるテーマはとことん見放されている日本の現在の学術研究政策では、将来日本はノーベル賞とは無縁の結果が見える。