一文無し(いちもんなし)という言葉がありますね。文無し(もんなし)、あるいは無一文(むいちもん)とも言います。 もちろんこれらは「所持金がない」ことを意味する言葉。現代風に表現するならば、それぞれ一円無し、円無し、無一円とでも表現できるかもしれせん。 ともあれ、かつての通貨単位である文は、現代の日本語でもさまざまな場面で登場します。今回は文が登場する言葉について、その意味や由来を紹介することにしましょう。

寛永通宝、一枚分が一文

まず通貨単位の文について、簡単に説明しておきましょう。

文はもともとは中国(普から南北朝の時代)で使われていたもの。日本には奈良時代から使われるようになった単位です。

江戸時代には庶民の使用するお金の単位となり、あの寛永通宝(時代劇ファンなら銭形平次が投げ銭としてよくご存知のことでしょう)の一枚分が、一文とされていました。

時代にもよりますが、一文の価値は今の十円程度。江戸時代の本「東海道中膝栗毛」(とうかいどうちゅうひざくりげ)には、餅ひとつが三文または五文との記述も登場します。

よく「早起きは三文の徳」といいますが、餅一個分の徳を「得」と見るか「そうでもない」と見るかは、人によって意見が分かれるかもしれませんね。

二束三文は、草履(ぞうり)の安売り価格

「長年買い集めていた蔵書を、二束三文の値段で売る」という言い方をしますね。二束三文とは「価格が非常に安いこと」を意味する言葉です。

この二束三文という言葉は、実は「草履の安売り価格」が語源だとされています。具体的には草履(金剛草履)の二足分を三文で売っていたことが語源ではないかとされているのです。

これが転じて、一般的に品物を低価格で売り払う状況も二束三文と呼ぶようになりました。草履が由来とされるため、二束三文を「二足三文」と書いても間違いではありません。

なお「三文」は無価値を意味する表現によく登場する言葉でもあります。「三文小説」とはつまらない小説のこと。「三文判」は安価な印鑑のことを意味します。

びた一文、漢字で書くと鐚一文

「こんなものには、びた一文も払えないよ」という表現があります。

このびた一文を漢字で書き直すと「鐚一文」となります。「鐚」(びた)はなかなか見慣れない漢字ですね。

よく見ると、金偏(かねへん)に悪の旧字が組み合わさった形をしています。この組み合わせが意味するとおり、鐚とは粗悪な銭(ぜに)を意味する言葉です。

室町時代には中国製(明製)の永楽通宝に対する私鋳銭のこと、江戸時代には寛永通宝に対する鉄銭のことを、鐚銭(びたせん、びたぜに)と呼んでいました。

いずれも、一文に満たないわずかな価値しか持ち合わせていない通貨であった点で共通します。

したがって「びた一文も払えないよ」とは、「ほんのわずかの対価すら払いたくない」ということを意味することになります。

十六文キックの文って何?

往年の名プロレスラー・ジャイアント馬場(1938年~1999年)。身長2メートル超の巨体から繰り出されるキックは、十六文キックと呼ばれていました(ドロップキックは三十六文人間ロケット砲と呼ばれた)。

ここでいう文とは「足袋や靴の長さ」を表す単位。かつて一文銭を並べた枚数によって足袋の長さを表現したことが由来です。

ちなみに一文銭の直径は約2.4センチ。したがって十六文は38.4センチとなります。

しかしながら、馬場選手の足はそこまで大きくありませんでした。実際の長さは32センチ程度だったといいます(それでも規格外に大きいのですが)。

馬場選手の靴のサイズについて、新聞記者が「米国規格のサイズ表記」と「文によるサイズ表記」を取り違えたために生まれた表現だったのだそうです。

ということで今回は、現代の日本語にも生きる通貨単位「文」について紹介してみました。

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もり・ひろし

新語ウォッチャー。1968年生まれ。電気通信大学卒。CSK総合研究所(現CRI・ミドルウェア)を経て、新語・流行語専門のフリーライターに。辞書・雑誌・ウェブサイトなどでの執筆活動を行う。代表的連載に日経ビジネスオンライン(日経BP社)の「社会を映し出すコトバたち」、現代用語の基礎知識(自由国民社)の「流行観測」欄など。