先日、シンガーソングライターの谷村新司さんが74歳でお亡くなりになった。筆者の同世代で1970年代以降を代表するシティフォークの作曲、作詞、ボーカル、どの分野でも超一流のアーティストであった。 今年の日本も多くのアーティスト達の訃報が相次いだが、3月に亡くなった、とりわけ世界に抜きんでた2人のアーティストを忍び想いを述べたいと思う。 1人は今年の3月3日に88歳でお亡くなりになった、ノーベル文学賞の大江健三郎氏であり、もう1人は3月28日に71歳でお亡くなりになった米アカデミー音楽賞の坂本龍一氏である。

お二人とも我が国を代表するというか、まぎれもなく世界に最も知られる、日本人の文学者であり、音楽家であった。

大江健三郎さんは戦後文学を牽引したとか、代表するとかいう言葉ではあまりにもいいあらわせられないほどの重みをもつ。筆者にいわせればむしろ君臨したとか統治したとかいう言葉のほうがその与えた影響力を表すにはないと思うのである。

筆者の高校3年の11月にもう大学受験もまぢかな時に昭和40年の11月であったが、戦後文学の新鋭達の全集が講談社から発売された。そもそもの全集の選者兼編集者が大江健三郎と気鋭の評論家の江藤淳の両氏であった。全22巻の全集で第一回配本がわれらの文学18の大江健三郎その人であった。

その文学全集は当時かなりの話題で読書家には待ちに待った戦後文学の集大成であった。

筆者は高校生の頃はオーソドックスに夏目漱石、川端康成、志賀直哉というところで近代文学には一通り目を通していたが戦後文学にはまだ到達せず、大江健三郎はその時すでに一世風靡している存在であったが、まだ文学入門の地点で日常の暇つぶしていどの読者であった。

だが時代の文化の新しい盛り上がりには敏感でこの全集はぜひ初刊本で手に取りたいと待っていた。

初めての大江健三郎との出会いはまさしく強烈な読後感と、何か手探りで社会とぶつからなければならないという使命感をわきたたせた。

その全集の作品は彼の初期の作品で「性的人間」「叫び声」「セブンティーン」「戦いの今日」「人間の羊」「飼育」「死者の奢り」「奇妙な仕事」「芽むしり仔撃ち」という作品群で芥川賞受賞作を含めた20代の頃の作品集である。

自然や動物達との神秘的ともいえる交感をなしえた山村の少年たちの豊饒なイメージと古典的完成度の作品から都会に故郷を奪われてさまよう孤独な青年に自己回復と自己処罰の欲求に満ちた小説に変化していく作品と、二つの流れが交差している作品群であったが、筆者を一気に社会的覚醒に揺り動かした衝撃的な小説であったことを今でも鮮明に覚えている。

この後大江の最高作品と呼ばれる、「万延元年のフットボール」がすぐ出て益々その感を強くした。

この「万延元年のフットボール」は文学を志すほとんどの作家が今でも到底かなわない小説というほどの圧倒的な作品である。世界的にも最も評価の高い作品で、ノーベル賞の対象となる代表作と言われている。今人気の「村上春樹」も強い影響を受けていることを言っている。ただ、生半可な向き方ではこの小説は読みこなせないというのが凡人としては痛切に思う作品である。

実は筆者もこの「万延元年のフットボール」以降は大江健三郎氏の作品は短編以外、あまり読んでいない。その後の長男の障害者を通した救済と励ましの文学はより大江氏を社会的な反戦、反核、護憲の運動に、かかわらせる魂の浄化作用で戦後世代を最後まで引き付けていた。

大江氏の小説はそもそもタイトルが魅力的である。タイトルそのものがポエティック(詩文)と言ってよい。

「洪水はわが魂に及ぶ」     「同時代ゲーム」

「見るまえに跳べ」       「われらの時代」

「雨の木を聴く女たち」     「燃え上がる緑の木」

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」

「遅れてきた青年」       「日常生活の冒険」

この中で気に入った題名を見つけたら、ぜひ秋の夜長に手に取ってもらいたい。

さて、もう一人の世界的音楽家である坂本龍一さんの話に移そう。実はこの人を強く意識した根底に今までふれてきた講談社の「われらの文学」が大きくからんできている、因縁の取り合わせでもある。

このシリーズの文学者の三島由紀夫、野間宏、高橋和巳などの戦後文学の旗手たちを育てた伝説の文芸編集者「坂本一亀」のことを、筆者が知ったのは、高橋和巳が1971年に39歳の若さで逝去して、その後1977年に妻の文学者である高橋和子によって「高橋和巳の思い出」という本が出版されたころである

高橋和巳は「悲の器」という問題作でデビューするがそのスタートをさせたのは河出書房の編集者であった「坂本一亀」であった。雑誌文芸の編集長を務め、まさしく戦後の文学の隆盛を演出したレジェンドである。筆者は戦後の団塊の世代であるが、この戦後すぐに生まれた圧倒的な人口を誇る世代で、中学生の卒業のときはまだ半分以上が中卒でいわゆる「金の卵」として地方から大都市へ就職列車に乗り、日本の高度経済成長を最前線でになった層であり、世代の15%ぐらいが大学に進学して、戦後学生運動の激しさをもたらした「全共闘」時代の層である。

この全共闘世代の文学のバイブルは「高橋和巳」の文学であり、圧倒的な人気を誇り、また学生運動の終焉とともに、若くして亡くなっているのでこの世代の鎮魂の作家でもある。その高橋和巳の良きプロデューサーであった「坂本一亀」こそ、坂本龍一の父親なのである。1978年それを知った時、少しして、坂本龍一がちょうどYMOのバンドで国内外で成功してテクノポップという新しいジャンルで注目され始めた時、ああこの人は「坂本一亀」の息子かということでなんとなく贔屓を始めたのである。

YMO時代は若くして頂点に登ったせいか、いろいろなインタビューなどを聞いてかなり天狗で角のあるつっかかるような発言が多いなと思ったが、あの文化の戦闘的時代の象徴であった「坂本一亀」の息子だから、さもありなんと変に納得してたのを覚えている。YMOが解散してソロ活動がはじまり、大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」で俳優と映画音楽を担当してデビッドボウイやビートたけしとの共演が話題となり、映画音楽がイギリスアカデミー賞作曲賞を受賞したころからYMOの時の活躍と併せ、世界でよく知られるようになった。大島渚監督を今でも巨匠と思ってる筆者としては映画の面白さと共に彼の音楽が同時に浮かんでくる。87年の巨匠ベルナルド・ベルトルッチ監督の「ラスト・エンペラー」ではあの悪名高き甘粕大尉を演じ、その音楽でアメリカアカデミー賞作曲賞を日本人で初の受賞をして、30代の若さで一気に「世界のサカモト」として日本人アーテイストとしては別格の高い評価を確立した。

後年はかなり穏やかで思いやりのある人間として成長して、社会的な問題にも積極的に発言して、反原発のデモにも参加していた。二人の偉大なるアーティストの共通する社会性であった。

坂本龍一の座右は「芸術は長く、人生は短し」とのことであるが、芸術が作者の生と無縁であるがゆえに、死は屈折したものとして、つまりメタファーとしてあらわれるとテオドール・アドルノは「ベートーベン」で指摘していたが、むろんそのような屈折を作品に織り込む境地にいたる作家はごく限られている。

自己と他者、社会と自然、芸術至上主義と人間中心主義が入り混じる偉大なる日本の2人の芸術家に共通してたのは、まことにラジカルな晩年の意志のスタイルであった。

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飯塚良治 (いいづかりょうじ)

株式会社アセットリード取締役会長。 オリックス信託銀行(現オリックス銀行)元常務。投資用不動産ローンのパイオニア。現在、数社のコンサルタント顧問と社員のビジネス教育・教養セミナー講師として活躍中。