さて、今回も引き続き、絶賛放映中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から主人公・北条義時(ほうじょうよしとき、以下「義時」)の人生に大きく関わった、初代鎌倉殿である源頼朝(みなもとのよりとも、以下「頼朝」)についてお伝えしてきたいと考えています。皆さんも頼朝について余り良いイメージを持っていないかと思います。その理由は私の私見も含めて後程お伝えしていきます。
頼朝は1147年清和源氏の一流たる河内源氏の源義朝(みなもとのよしとも、以下「義朝」)の三男として尾張国愛知郡熱田(現在の愛知県名古屋市熱田区)の熱田神宮西側にあった神宮大宮司・藤原季範の別邸(現在の誓願寺)に生まれます。幼名は鬼武者、鬼武丸でした。乳母には比企尼、寒河尼、山内尼などがいました。
1158年父義朝は保元の乱の際、後白河天皇(後の後白河院)方で平清盛(たいらのきよもり、以下「清盛」)らとともに戦い、勝利します。ここで崇徳上皇方についた父為義(ためよし)ら兄弟の助命を自身の戦功に替えて願いますが許されず、父や弟達6人を斬首し、左馬頭に任じられます。実はここに後白河天皇と清盛の策略がありました。崇徳上皇側には清盛の叔父平忠正(たいらのただまさ)もいたのですが、義朝が助命嘆願すると清盛は知ると忠正を先に斬首したのでした。そうすることで義朝の助命嘆願を諦めさせ、源氏の力を削いでいたのでした。このことはこの3年後に起こる平治の乱の際に義朝方に重大な結果となって表れたと考えています。つまり、義朝自身が戦さの際に部隊長(指揮官)の役目を担うことになる弟を失うことで結果的にまだ若い長男である悪源太義平(あくげんたよしひら)に頼らざるを得なかったのでした。この義平が未熟者であったという訳ではありませんが、やはり戦いにおいて有能な指揮官は何人居ても良いでしょうし、敵も攻めづらくなるのは自明の理であると思います。その点後年の頼朝は自身はほとんど戦場に赴くことはせずに弟の源範頼(みなもとののりより、以下「範頼」)や源義経(みなもとのよしつね、以下「義経」)を自身の代わりとして向かわせていました。頼朝は有能な弟が居たからというのと、自身が戦下手だったことを自覚して、戦場には出なかったのかもしれません。因みに頼朝が御家人から「佐殿(すけどの)」と呼ばれていた理由は1159年に「右兵衛權佐(うひょうえのごんのすけ)」に任じられていたからなんです。
平治の乱で父義朝が清盛に敗れ、最後は家臣に湯殿(風呂場)で殺されてしまいましたが、頼朝は東国へ逃げる義朝一行とはぐれ、近江国(滋賀県)で捕えられ、京の六波羅に送られます。死刑が確実視されていましたが、清盛の継母の池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられます。なお助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いたとも言われています。頼朝は1159年に12歳で上西門院の蔵人に任じられていた関係と、後白河院は大河ドラマの中でも頼朝から「大天狗」と呼ばれているほど、平家と源氏を争わせたり、頼朝と義仲、頼朝と義経といったように武士同士を戦わせて朝廷を守ろうとしたように、この時点から平家の勢力に対抗できる者を作っていたように思えます。
伊豆国蛭ケ小島(静岡県伊豆の国市)に流罪となった頼朝ですが、最近の研究ではこの蛭ケ小島というのが実はそうではないのではないかと考えられています。この蛭ケ小島は元来北条氏の支配領域で、当初からこの地に居たというのは後に頼朝が北条氏の力を頼り、平家打倒の兵を挙げたので、後付けでこの場所にしたのではないかと言われています。また流人という言葉のイメージとは大分異なり、巻狩りなどに参加している記録もあり、伊豆及びその周辺では「名士」として遇されていたとの説もあります。
1180年頼朝は平家打倒の兵を挙げます。最初は伊豆国目代・山木兼隆(やまきかねたか)を標的として政子の父であり舅である北条時政(ほうじょうときまさ、以下「時政」)らが韮山の目代屋敷を襲撃し、山木を討ち取りました。その後相模国へ向かい、三浦一族と合流を図るのですが、あいにく酒匂川が大雨の為、増水し三浦一族が足止めをくらい、合流できずに石橋山の戦いで平家方の大庭景親(おおばかげちか)、伊東祐親(いとうすけちか)の兵によって敗北し、真鶴岬へ逃げます。この敗走の中で平家方の梶原景時(かじわらかげとき)に助けられるということもありました。
真鶴岬から房総半島へ渡ってからの頼朝はあっという間に数万の兵を率いて鎌倉に入ります。この期間は石橋山の戦いが8月末、鎌倉入りが10月初めなので約1か月で、関東の名だたる坂東武者が味方に付いています。実はこの時頼朝は父義朝の恩恵を受けています。上総介広常(かずさのすけひろつね)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね)、畠山重忠(はたけやましげただ)など実は父義朝の郎党だった者やその一族・子供等でした。その後の展開は皆さんも大河ドラマをご覧になっているかと思いますので、余り述べないようにします。
ここからはほぼ私見による頼朝の人気のない理由を幾つかの点から述べていきたいと考えています。また最後に頼朝の死についても大河ドラマの内容を踏まえて予想していきたいと考えています。
先ずは人気のない理由ですが、一番の理由は弟である源義経(みなもとのよしつね、以下「義経」)を討ったからだと思います。悲劇のヒーロー義経は今回の大河ドラマでも軍事についての天才的才能を発揮して、平家を討伐しています。その戦術は当時の坂東武者にはない発想で、何度も反対や不可能であると言われていましたが、結果としてはその戦術によって源氏はあっという間に平家を倒しましたのですから大功労者です。直接褒めてあげるべきだった。ただ、頼朝が考える御家人との関係性から兄弟、源氏一族と言えども主従関係を結ぶべきと考えていたようです。一方義経は頼朝の血を分けた兄弟にとして、御家人は自分にとっても御家人である。つまり家臣であるといった考えだったようで、その辺りから認識にズレが生じて、その隙を後白河院につけ込まれ、仲違いしてしまったのだと思いますが、義経にその辺りを理解させる人間が居たら、または頼朝が直接伝える機会があったらと思ってしまいます。ただそうしなかったということは、頼朝は義経に危険性を感じたから追いつめていったのだろうと思いますし、これまでも兄弟や親子で争ってきた河内源氏の血がそうさせたのかもしれません。結果的に直接手を下した訳ではないのですが、そのように仕向けたのは頼朝ですので、仕方ない点もあると思います。
更なる理由としては、頼朝自身が先頭にたって戦場に居なかったことも歴史家の評価が下がる原因ではないかと思います。歴史上の人物で人気のある織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった戦国三英傑は自ら戦場に立ち、采配を振るい兵とともに生死の境を越えてきています。室町幕府を作った足利尊氏も戦場に立っています。尊氏は抜群に戦いに強かった武将でもありました。指示や命令だけを行い、自身は平和な場所に居るという帝国陸軍参謀本部と変わらないのも人気のない理由ではないかと思います。ただ仕方のないことかと思う部分もあります。それは頼朝自身が子飼いの家臣を持っていなかったからだと思います。13歳で父を失い、流人生活でしたから、先程挙げた秀吉を除いた武将には代々の家臣が居ましたし、その者たちと成長してきましたから自身の兵が居ない中、戦場には出れないと考えるのは仕方ないでしょうし、頼朝は戦下手だったこともあったかと思います。
ここからは頼朝の死について考えていきたいと思います。征夷大将軍に任命された1192年から6年後の12月、頼朝は相模川でも催された橋供養からの帰路で体調を崩します。原因は落馬と言われていますが、定かではありません。何故定かではないのか。それは鎌倉幕府の公式文書である「吾妻鏡(あずまかがみ)」に頼朝の死についての記述が全くないからです。
具体的には、1195年12月22日、頼朝が友人宅に遊びに行ったという記述を最後に、1196年~1199年1月までのものが、なぜかごっそり抜けて落ちている。再開されるのは「1199年2月6日、頼朝の長男・頼家が後を継いで征夷大将軍となった」という記述からである。つまり「吾妻鏡」では一切、頼朝の死には触れられていない。これは「吾妻鏡」が北条氏の作成による文書である以上、北条氏にとって都合の悪い点は削除されたと考えるのが妥当な考え方であると思います。
頼朝の死には「落馬説」「糖尿(飲水病)病説」「溺死説」「暗殺説」等の説があります。私は「吾妻鏡」の記述が抜け落ちている点などから「暗殺説」ではないかと以前から考えていました。この暗殺説も最近は上記に挙げた落馬説も絡んでいる複雑なものではないかと考えています。今回の大河ドラマでの頼朝の描かれ方を観ていても残忍さが際立っています。大恩のある御家人に対しても簡単に殺害命令を下している点や自身に意に反する者は殺害命令を躊躇なく指示しています。これは暗殺説を暗に示唆しているのではないかと考えてられますし、坂東武者の考え方と頼朝の考え方が乖離している部分も描かれています。頼朝は朝廷と共存した武士の政権を、坂東武者は朝廷とは別に坂東武者による坂東武者の政権を目指していたようで、頼朝は娘の大姫を天皇の后にしようと画策したりして清盛と同じような貴族化した政権が最終的な形であったように思えます。これは明らかに坂東武者の考える政権とは異なります。
坂東武者にとって自身の領地、父祖伝来の領地を守ることが第一である中で、それを理解し、実行してくれると期待したのが頼朝であったはずです。しかし、その頼朝が自分達と異なる考え方を持っていることが許せなかったのかも知れません。つまり頼朝暗殺は御台所政子を含めた御家人の総意ではないかと思います。ただ武士として落馬するというのが余り現実的ではないのですが、頼朝の馬に細工をして落馬するように仕向け、助けるふりをして致命傷を負わせる。これを実行するのは義時に命令された梶原善さん演じる善児が行うのではないかと。
頼朝の死後、手始めに有力御家人13人による合議制を作り、将軍を権力のない名誉職のような地位にしてしまい、幕府政治の実権を合議制に集約します。これは御家人の総意で作られていますが、これもおそらく前々から考えられていたはずです。歴史の結果から俯瞰してみると必然的に頼朝は暗殺されたというのが見えてくるように思えます。その後御家人内の勢力争いが起こり、その最終勝者が北条氏であり、鎌倉幕府は北条氏によってその後約130年続きますので、北条氏による政治は坂東武者にとって良かったのかもしれません。