結城秀康
皆さん、こんにちは。10月も後半を過ぎて朝晩の気温も下がってきて特に女性の方は毎日の服装選びに難儀していらっしゃるのかも知れないですね。衣替えを完了した方、まだの方と様々な季節ではありますが、私的には一番過ごしやすくて良い季節だと思っていますし、周りの景色も徐々に色づいてくるのを日々見て、感じられるのは凄く良いと思っています。毎朝、相模湾から富士山が見えると嬉しい気持ちになりますね。

さて、今回も現在絶賛放送中の大河ドラマから、一人の人物を取り上げてお伝えしていきたいと思います。今回の人物は徳川家康の次男にして、豊臣秀吉の養子である結城秀康(ゆうきひでやす、以下「秀康」)になります。家康には多くの男子の子供がいます。この子供たちは安定型と破滅型に分類されたりします。安定型には2代将軍秀忠や松平忠吉、水戸藩主徳川頼房などとなり、破滅型は岡崎信康、松平忠輝、紀州藩主徳川頼宜などとなり、そして結城秀康も破滅型に分類されたりします。この破滅型の特徴としては武勇に優れ、人を惹き付ける魅力や体制に対する反骨精神などを持っていたと言われています。この4人はいずれも何かしらの事件に関わったり、突然亡くなったり、不遇の人生を送っています。

秀康は1547年、家康の次男として生まれました。母は側室・お万の方と言います。実は秀康は双子であったと言われています。この当時双子は「畜生腹」と呼ばれて忌み嫌われていました。その為、家康から嫌われていたとか、または母親であるお万の方の身分が低かったから、さらには正室築山殿の侍女であったから嫌われていたという言い伝えがあります。それは幼名にも現れています。「於義丸(おぎまる)」という幼名ですが、顔がギギという魚に似ているからという理由でつけられたのでした。しかし母親のお万の方の実家は三河国の二宮である知立(池鯉鮒)神社の神職を務める永見家で身分が決して低い訳ではないのは確かです。またお万の方の母方の親族には家康の母であるお大の方に繋がっています。ただ秀康が双子であったことは事実のようです。双子の弟は母の実家を継いで、永見貞愛(ながみさだちか)という神官になっています。永見という名字は後に秀康が越前家を創設以降、越前家の次男や三男となる者が名乗っていくものになっていきます。結果として、嫌われていたというよりはこの当時の家康の状況が影響していたと思われます。後に秀康が秀吉の養子に出されたり、最年長の子供であるのに家康の後を継いで将軍になれなかったから、後付けでそういったエピソードを付けているのではないかと思ってしまいます。

秀康自身は秀吉の元に養子に出されてから、その当時の歴戦の武将たちとの交流で人間的にも成長したはずです。秀吉の九州(島津家)征伐で初陣を果たし武功も挙げていますし、また文化的な面においても茶の湯に代表される千利休などの文化人と接してそれを吸収していたはずです。領土経営といった点も秀吉やその弟である秀長に学んでいたはずです。史実では秀吉への人質の意味合いもあったように語られていますが、この当時秀吉には実の子供がなく、様々な形で自身の養子や猶子を作っています。甥である後の関白・豊臣秀次や小早川秀秋(こばやかわひであき)、更に宇喜多秀家(うきたひでいえ)も秀吉の養子や猶子です。この3名は関ヶ原の戦い後までにはみんな亡くなって、秀康だけが生き残っていたのですが、実は豊臣秀頼側近たちがかなり秀康のことを頼りにしていたという話しもあります。血は繋がっていませんが、兄弟となりますからね。

秀康が歴史の表舞台に出てくるのは、加藤清正、福島正則ら七武将による石田三成襲撃事件になります。この時、三成は五奉行の職を辞し、居城である佐和山城に蟄居することになりました。その三成を護送する役目を秀康が命じられます。三成護送の際に七武将が襲ってくるかも知れない、または三成の家臣が強奪にくるかもしれない等の理由から武将としてその当時多くの者から認められていた秀康が任されました。また秀吉が亡くなった時に家康は在坂していましたが、余り多くの家臣や兵を連れてきていませんでした。何故なら家臣の多くは関東に移封されたばかりで、自身の領地のことを行っていました。その為、家康の元には本多忠勝(ほんだただかつ)や本多正信(ほんだまさのぶ)等しかいない状況でした。しかしこの時秀康も在坂していて、家康は秀康を手元に置いていました。この頃には家康から絶大な信頼をされていたという証拠にもなります。関ヶ原の戦いの発端となる上杉征伐では、その抑え役となり見事に上杉だけでなく、常陸国の佐竹氏も抑えました。関ヶ原の戦いには直接参加は出来ませんでしたが、上杉及び佐竹への抑えとしての意味は大きく、後に越前北の庄68万石に加増移封されました。入国に際して北の庄城から現在の福井にその居城を定め、城下の整備に力を尽くしました。ただ入国から6年後に病で亡くなってしまいました。33歳でした。亡くなった際には多くの家臣が殉死したと言われています。弟の秀忠が将軍となり、将軍の兄として様々な葛藤があったと思います。戦国の世が続いていたならば、秀忠ではなく秀康が跡継ぎになっていたはずです。それは武勇のない秀忠では徳川家臣団を纏められなかったのは明らかですし、家康ほどではありませんが、秀康には武将としてのカリスマ性もあったと言われていました。その葛藤に部分を人質や養子に出されたという幼年期の苦労が秀康を大きな人物にしたと思います。しかしその嫡男である松平忠直(まつだいらただなお)にはその葛藤は不満となってしまい、乱行を繰り返し忠直は隠居命じられてしまいます。

ここからは幾つかのエピソードをお伝えしたいと思います。

一つ目は、伏見城において行われた弟・秀忠の将軍就任祝いの席で上杉景勝が秀康に上座を譲ろうとすると、二人は同じ権中納言といえども、景勝の方がより早くその官位を受けているとして、先官の礼をもって景勝に上座を譲ろうとして譲り合いになってしまったという。結局、秀忠の裁定で秀康が上座になったが、これを見た人々は秀康の礼節や謙譲の心の大きさに感心したという。

二つ目は、秀吉の人質時代、伏見の馬場で馬を駆けさせていると、秀吉の寵臣が馬術を競うために秀康に馬首を並べて馬走した。秀康は「自分の許しもなく共駆けするとは無礼千万である」として無礼討ちした。しかし秀吉は秀康のこの行為を、「自分の養子をないがしろにするのは、自分に無礼を働いたことと同じ。秀康の処置は天晴れである」と褒め称えたと言われています。

三つ目は、秀康が家康と伏見城で相撲観戦していたとき、観客が熱狂して興奮状態になり騒ぎ始めた。すると秀康は観客席から立ち上がって観客を睨みつけた。その威厳に観客の誰もが驚き、騒ぎは一瞬で静まったといわれている。この秀康の威厳には家康も驚き、『校合雑記』には「今日の見物あるなかに、三河守(秀康)が威厳驚きたり」と述べたという。

この三つのエピソードは秀康が武勇もあり、そして礼儀礼節もわきまえた優れた人物であったということを示していますが、一方で本来ならば将軍になるべき人物であったが、なれなかった「無念の人」として、逆にそれでも将軍になった秀忠を持ち上げているようにも取れてしまいます。それは家康にも負い目のようなものとして残っているようにも感じます。その証拠に秀康の息子である忠直が様々な不祥事を起こして隠居させられて、越前藩は弟が継いでいますし、忠直の息子である光長は越後国高田藩としては後に大名にとりたてられています。また秀康から始まる越前家は越前(福井)松平家として御三家とは別格の「制外の家」とされました。その一族は雲州松平家、前橋松平家、明石松平家などの分家を作り、この一族で最盛期には100万石を領するようになっていました。家康は築山殿との子供の家系(奥平家・小笠原家・奥平松平家・忠勝系本多家・池田家)にも同じように多くの領地を与えています。

最後に石田三成失脚(石田三成襲撃事件)時、秀康が三成を護衛して瀬田まで送ったと先程お伝えしましたが、三成はその労を感謝し、正宗の刀を秀康に贈っています。この名刀は「石田正宗」と称され、秀康の末裔にあたる津山松平家に伝世されている(名刀「石田正宗」は現在、東京国立博物館蔵)。更に秀康は天下三名槍の一つである駿河嶋田の鍛冶師・義助の傑作「御手杵」を所有していたことで知られています。養父・結城晴朝(ゆうきはるとも)から譲られたこの槍は、槍身だけで全長210cm、穂先が138cmもあり、常人には振り回せないほど重く大きかったといわれていて、生涯で家康が関わった大きな重要な戦にはほとんど参陣していない秀康としては、この名槍と名刀を持ち、関ヶ原の戦いも戦場を駆け回りたかったのかも知れないと考えると武勇を持ち、あまたの武将からその器量を高く評価されていたにもかかわらず悔しかっただろうと思ってしまいます。そういった意味でも「無念の人」だったのかも知れません。

秀康は梅毒で亡くなったと言われていますが、実は秀忠の命を受けた柳生一族に暗殺されたという話しもあります。なぜ秀忠が兄である秀康を殺すのか、それはやはり器量や大名たちからの人気、そしてまだ戦国の世が残っているような時期には武将としての力量を持った者が天下を治めるのが良いと誰もが思っていたはずですからね。私は秀康は秀忠に暗殺されたという話しの方が興味が湧きますし、そうなのかもしれないと信じますね。