皆さん、こんにちは。9月は別名「長月(ながつき)」と呼ばれ、その由来は「夜長月(よながつき)」の略であると言われます。

また9月23日は秋分の日であり、暦的には「秋」なのですが、現実はまだまだ暑く今年は日本だけでなく、世界的にも異常気象で例年以上にその暑さが厳しく、皆さんもご苦労されているかと思います。

体調管理が難しい時期ではありますが、充分気を付けていきましょう。

さて今回は、6月30日に第42回世界遺産委員会により「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺跡」が国内22件目の世界遺産の認定を受けました。これに関連する事柄を述べていきたいと思います。

潜伏キリシタンと島原の乱

「潜伏キリシタン」とは歴史的には一般に「隠れキリシタン」と呼ばれていて、江戸時代を通じて厳しい弾圧の対象とされてきました。

しかし、江戸幕府は最初から厳しい禁教を強いてきた訳ではなく、徐々に段階的に禁教の地域(直轄地から)やその内容を広げていき最終的に全国がその範囲となりました。

特にその弾圧が苛烈だったのが元和年間の弾圧となります。皆さんも教科書などで見かけたことがあるかと思いますが、隠れキリシタン発見方法として『踏み絵』が使用されたのがこの時になります。

この『踏み絵」を泣く泣く、自身の気持ちや信教に嘘をついて踏んだ人達が「隠れキリシタン」になっていきました。しかし、踏み付けられ虐げられた思いが爆発することは必然でありました。それが島原の乱(1637年)でした。

島原の乱は江戸時代初期に起こった日本史史上最大規模の一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦であり、「島原・天草の乱」「島原・天草の一揆」とも呼ばれています。

乱(一揆)のそもそものきっかけは圧政・重税であり、乱の勃発後にはキリスト教が一揆勢の精神的な拠りどころとされました。

島原と天草は共にかつての戦国大名が改易されて、その家臣が浪人や農民に転じていた者が多く、さらに改易された大名がキリシタン大名であった為、この地域に元々キリシタンが多く存在していて、浪人を中心に農民やキリシタンが既に組織化されていたこともあり、一揆が起こる土壌が出来上がっていたのでした。

島原の乱で「天草(益田)四郎時貞」を中心に一揆勢が立てこもったのが「原城跡」でした。この原城は江戸幕府の一国一条令により、この当時は廃城になっていました。

この城跡に総勢37,000人(幕府側記録)が立て籠もりました。一方討伐する幕府連合は九州の各藩を中心に125,800人が城跡一帯を囲みます。

当初、一揆勢の士気や勢いは幕府軍を凌ぎますが、「知恵伊豆」として有名な老中・松平伊豆守信綱が総大将として指揮をとると、兵糧攻めを実施しました。

開始から約半年後に幕府軍の総攻撃により一揆勢37,000人全滅という結果で終結します。その後の処断は苛烈でわずかに潜伏していたキリシタンが「隠れキリシタン」となりました。

「隠れキリシタン」は密かに信仰を続けるために長崎などの離島に移住し、様々な形態で他の宗教と共生をはかっていきます。

具体的には、慈母観音像を聖母マリアに見立てたり(今日、それらの観音像は「マリア観音」と呼ばれています)、聖像聖画やメダイ、ロザリオ、クルス(十字架)などの聖具を秘蔵して「納戸神」として祀ったり、キリスト教伝来当時にならったやり方で生まれた子に洗礼を授けるなどして信仰を守りつづけていました。

当初「隠れキリシタン」は日本全国に居ましたが、徐々に棄教していき、最終的には長崎や熊本のみとなっていきました。

また皆さんのお墓にも家紋が明示されているかと思いますが、代々の家紋をわざわざ十字架を模したものに変更した方や戒名にも作為的に「十」の字を入れたものにした方もいらっしゃったと聞いたことがあります。

教皇フランシスコの2014年1月15日「一般謁見演説」

2014年1月15日の一般謁見演説でフランシスコ教皇は、「日本のキリスト教共同体は17世紀の初めに聖職者は追放され一人の司祭も残らず、共同体は非合法状態へと退き、密かに信仰と祈りを守りました。

約250年後に宣教師が日本に戻り、数万人のキリスト信者が公の場に出て、教会は再び栄えることができました。このことは偉大です。

日本のキリスト教共同体は、隠れていたにもかかわらず、強い共同体的精神を保ちました。彼らは孤立し、隠れていましたが、つねに神の民の一員でした。

私たちはこの歴史から多くのことを学ぶことができるのです」と公式コメントを声明しています。

これをうけバチカンのローマ教皇庁は隠れキリシタンを「古いキリスト教徒であり、キリスト教徒とみなさない理由はない」とし(朝日新聞2014年3月26日)、信教の自由・文化的自由を認め、キリスト教の裾野の広さ、寛容さや多様性を示そうとした。

「隠れキリシタン」が他の宗教と共生したことにより、本来のキリスト教の形とはかけ離れてしまったとしても、キリスト教であることが教皇やローマ教皇庁から認められたということを示しました。

キリスト教が身近にない日本人より、外国人、信者の方がその特異性を感じるのではないでしょうか。その為、世界遺産になったことで外国からの観光客が必ず増えるように思います。

戦国時代の最盛期には、30万人や40万人がキリスト教信者であったと言われています。その結束力や組織力を嫌った政権担当者は「禁教令」を出していきました。

豊臣政権、江戸幕府、更には驚くべきは明治政府による「禁教令」も発布させています。

開かれた国、開国をして世界へ飛び出そうとしていた明治の日本が禁教令とは矛盾していると思う一方で、宗教の持つ力を明治政府の高官も感覚的に気づいていたんでしょうね。

今後は全国に残っている隠れキリシタンについてもクローズアップされるとその関連性なども研究対象に値するのではないかと思っています。

ライタープロフィール

八幡太郎 (歴史ライター)
八幡太郎 (歴史ライター)
歴史が大好きで話し始めたら止まりません。
ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。