皆さん、こんにちは。11月に入ると、季節は秋から冬に移って朝夕はかなり涼しいどころではなく寒いですよね。毎日の通勤で富士山を見るのですが、先月中頃には雪化粧し始めていました。今年は猛暑であったので、紅葉の名所は例年よりも綺麗に色づいているというニュースを聞きます。桜と同じように日本人はこの紅葉も哀愁があるので基本的に好きであると思います。紅葉や秋で私が思い浮かぶ俳句をご紹介します。 『秋深き 隣は何を する人ぞ』(松尾芭蕉) 『柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺』(正岡子規)

 

さて、今回は11月に起こった事件から、その事件の当事者とその人物に関わった人物について述べていきたいと思います。皆さんの中で「近江屋事件」と聞いてその内容が分かった方はおそらく今回私がお伝えしたい人物について良くご存じの方だと思います。

「近江屋事件」とは慶応3年11月15日(1867年12月10日)に土佐脱藩浪士・坂本龍馬と中岡慎太郎が京都河原町の近江屋にて暗殺された事件のことです。この当時の龍馬は薩摩と長州を同盟させ、海援隊(亀山社中)隊長として外国と商売(主に武器や弾薬、戦艦等を購入)をして、前土佐藩主・山内容堂を介して徳川家から朝廷に政権を返上させる「大政奉還」を実現させていました。まさに八面六臂の活躍で絶頂期にあったかと思います。そんな龍馬暗殺事件は現在も未解決事件として歴史番組で取り上げられていますが、何者かに暗殺されました。今回はこの犯人について述べるものではないので割愛させて頂きます。

 

この当時、龍馬ほどの人脈を有していた人物はいなかったのではないかと思います。尊王攘夷を掲げる西郷隆盛や大久保利通の薩摩、木戸孝允や伊藤博文の長州に始まり、松平春嶽や勝海舟といった幕閣の要人、岩倉具視や三条実美の公家、更にはトーマス・グラバーやアーネスト・サトウなどの外国人、また龍馬に影響を受けて後に経済界で活躍した岩崎弥太郎や五代友厚など挙げたらキリが無い位様々です。

私を含めて皆さんの坂本龍馬のイメージは司馬遼太郎原作の「竜馬がゆく」によって創られていると思います。実際にこの小説を読んだことが無い方もこの小説を原作に映像化された龍馬を見ているはずです。

龍馬は質屋・酒造業・呉服商を営む豪商「才谷屋(さいたにや)」の分家の次男に生まれました。それが後の「亀山社中(海援隊)」と近代的な株式会社に類似した性格を持つ組織、今で言う商社に繋がっていると思います。また「万国公法」というその当時の国際法を理解し、通商活動に役立てていました。さらには、明治政府が一大事業として後々に行う蝦夷地(北海道)の開拓構想も持っていたと言われます。このことは、後年妻のお龍が蝦夷地の言葉を勉強していたと語っていたらしいです。別の一面として、龍馬は母親に代わり育ててくれた姉の乙女(おとめ)をとても信頼していて、現存する手紙の数も一番多く、恋愛相談等もした「お姉ちゃん子」であったようですね。

封建的な秩序を重んじる幕藩体制の中では収まりきらない自由な発想や構想と行動力を持っていたため、時代を先取りし過ぎていたことで保守的な人物や集団に暗殺されてしまったのではないかと私は思っています。

 

龍馬が関わった人物の中で龍馬に多大な影響を及ぼし、更に自身も龍馬に看過された勝海舟という人物がいます。勝は西郷隆盛と「江戸城無血開城」を取り決めた幕府側の重要人物でした。勝は少身の旗本の出身で、老中・阿部正弘や14代将軍・家茂にその才能を見出され幕府が海軍士官養成の為に設立した長崎海軍伝習所に入所し、万延元(1860)年に咸臨丸(かんりんまる)で渡米しています。後に慶応義塾を創設する福沢諭吉も一緒に渡米しています。帰国後に神戸海軍操練所を開設し、そこには龍馬や亀山社中(海援隊)のメンバーも入塾しています。この海軍操練所は船の操作、波や気象の読み方など、当時の日本で随一の航海術を学べる塾であったと言われていました。

勝は「江戸城無血開城」で歴史の表舞台に出ますが、その後の様々な面での活躍は意外に知られていません。明治維新後は旧幕臣の就職先の世話や資金援助、生活の保護などを行ったり、新政府側と旧幕府側の間に立ち、徳川本家や慶喜家の名誉回復にも尽力しています。武力による維新を望んでいなかった愛弟子・龍馬が実現できなかった明治天皇と15代将軍・慶喜の会談を実現しています。

一方で勝の活動によって、現在は一大名産地になっているものがあります。徳川家と多くの旗本が江戸城を無血開城した後、駿府(静岡)に移封(移動)していますが、生活が困窮しないように茶畑開墾を推奨させています。また、自身を援助してくれている川上善兵衛にワイン製造と葡萄栽培を奨め、このことが日本で最も古い歴史を持つ新潟県上越市の岩の原葡萄と岩の原ワインに繋がっていきました。

さらに江戸城無血開城の相手であった、西郷隆盛のことも気にかけていて、西南戦争で逆賊となってしまった名誉回復に奔走し、明治天皇の裁可を経て、上野への銅像建立にも尽力をしていました。

 

歴史には「もしも(if)」はないのですが、もしも龍馬が暗殺されずに明治維新を成し遂げていたら、現在の歴史とは全く異なるものが展開していたはずです。この幕末の時期にはそう思ってしまう人物が多数居ますし、そういったことを想像するとワクワクします。総じて早くして不幸な死を迎えた人ほど私はそういった感情にかられますね。