皆さん、こんにちは。5月も下旬となり、5月8日付で新型コロナウィルス感染症の感染症法上の位置づけが「5類感染症」に変更されて、3週間ほど経過しました。この「5類感染症」とは皆さんも良くご存じかと思いますが、インフルエンザや麻疹(はしか)、ウィルス性肝炎(A型・E型肝炎は除外)などと同等の分類となります。分類ランクが下げられたからといって安心は出来ないですし、海外からの訪日観光客はまた急増していますので、各自が自らを守ることは変わらないと考え、気を緩めないことがご家族や仲間を守るのではないかと思っています。

さて、今回も前回に引き続き、現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」から徳川家康に関わってきた人物や事件について皆さんに豆知識的なことからマニアックな内容をお伝えしていきたいと考えています。今回は家康の生涯において謎に包まれた重大事件である「信康・築山殿事件」について述べていきたいと考えています。

まさに丁度今週(5/28)の大河ドラマにおいて、その事件の一端が放送されましたが、この事件の最近の研究では家康派(浜松)と信康派(岡崎)の争いに起因したお家騒動というのが定説になっています。当時の家康は信長の支援の元で対武田の最前線である浜松城でその指揮をとっていました。一方信康は元服と同時に岡崎城を任せられ、浜松の後方支援と岡崎の整備を行っていました。浜松では戦続きで、その分成果をあげれば恩賞を受けて、どんどん領地や権限は増していましたが、岡崎は内政ばかりですので、恩賞もなく地位も変わらずの状況でした。当然のことながら岡崎派から見れば浜松派を武士である以上、羨望の眼差しで見ていたに違いありません。そういった家臣の不満に当時19歳の多感な若い城主が気づかない訳がないはずです。

なぜなら信康にとって自身に付けられた家臣は元は全て家康の家臣であり、家康と共に長い間艱難辛苦に耐えてきて、やっと今川からの支配から解放され、徳川家の飛躍や発展に希望を抱いている者たちですから、自分たちも戦に出て恩賞を受けたいと考えるのは当然の流れであると感じていたのでした。この当時はこういったお家騒動が数多く起こっています。有名なところで言えば、武田信玄とその父である信虎のお家騒動、また信玄とその息子・義信のお家騒動と武田家では2代続いて起こっています。皮肉なことに信玄は自身が父を追い出し、跡取りである息子を殺しています。武田家の滅亡はこの義信の謀反が遠因していると考えられます。更に兄弟で争ったのでは、織田信長とその弟である信行も織田家を二分するお家騒動でした。このようにお家騒動は当たり前のように起こっていました。

この「信康・築山殿事件」はまだ様々な観点から研究がされていて、今後新しい学説が出てくるかもしれない大変興味深い事件です。私も幾つかの関連書籍を持っていまして、その時々で読み返して新しい感覚を感じています。

今までの通説では、信康と築山殿が武田勝頼に通じて、実際の動きは岡崎奉行である大岡(大賀)弥四郎が信康の意を汲んで仲間を募り、武田とのやり取りを行っていたというものであり、岡崎城を開城して武田軍を引き入れるということでした。これに関して実は家康が信長から離れるために画策したという説もあって、最終段階で信長にそれがバレてしまい、信康と築山殿を犠牲にしたということです。

また定説は信長が「信康を殺せ」といったから仕方なく殺したということになっていますが、信長にとって信康は大事な娘婿であり、自身の嫡男である信忠を支える武将になって貰いたい、実際に戦においては武勇に優れた武将で、典型的な武辺者であったと言われています。織田・徳川連合軍の部隊長としては有能であったはずです。大事な長女の婿である信康を殺せとは言わなかったと思います。

おそらく家康から後の秀忠がこの頃には生まれていますので、(秀康もいますが)「信康を殺しますが、宜しいでしょうか」と伺いをして、信長が了承したのではないかと思います。ただ家康自身、本当は信康を殺したくなかったはずです。なぜなら、1579年8月家康が岡崎を訪れ、その翌日信康は大浜城(愛知県碧南市)に移されます。その後遠江国の堀江城(静岡県浜松市西区)、更に二俣城(静岡県浜松市天竜区)に移され、9月15日に家康の名により切腹させられました。この1か月以上の期間は信康派の家臣が反乱を起こさないように転々と場所を変えたとも取れますし、一方で主要な城に監禁するのでもなく、信康に逃げて貰いたいと思っていたのかも知れません。

歴史は勝者であり、最後まで残った者が自己の良いように書き換えられていますので、信長が「信康を殺せ」というのも信長の方が早く亡くなっていますので家康にとって好都合で、「死人に口なし」なのでしょうね。後年関ヶ原の戦いの直前に秀忠軍が遅れてしまい、仕方なく豊臣恩顧の大名に頼って石田三成と戦わなければならなくなった際に「ここに息子が居たら、こんな思いはしなかった」と漏らしたと言われています。まさに後付けですね。私は本当に言ったのかも疑問ですが。

しかし信康切腹後、信康の正室であった五徳(徳姫)は一旦信長の元に戻りますが、本能寺の変後は弟の信雄の元、更に京都に滞在し、関ヶ原の戦いの後は家康の四男忠吉から所領を与えられ、自身の孫や曾孫の面倒を見ながら、1636年まで生きていました。信康・築山殿事件が明るみになった原因が通説では「十二か条の訴え」によるという説もあるのに、切腹の原因を作った者を保護していたというのも可笑しな話だと思います。そういった点も事実を隠しているようにも思えますし、家康にとって信康・築山殿事件は隠しておきたいものだったと思われます。江戸幕府が続いている間はこの事件はタブーであったようで、信康のお墓は凄く質素なものであり、寺院はかなり荒廃していたようです。実は信康には生存説があって、私はこの話しの方が好きで、歴史小説家で誰か信康を主人公にした、実は生きていたみたいなもの書いてくれる方はいないだろうかなんて考えてしまいますね。

この事件はまたいつかもっと詳しく伝えられたらと考えています。