上杉鷹山
皆さん、こんにちは。3月に入って「新型コロナウィルス」の感染拡大の報道を聞かない日はなく、政府による小学校・中学校・高校の一斉休校の要請、世界的な株価の乱高下、大規模イベントの中止や自粛要請など、目に見えない未知の原因に世界が右往左往しています。こういう時こそ慌てず、騒がず冷静にいつも通りの生活をおくることが必要なのではないでしょうか。私はこの一連の現象が治まった後の日本経済、特に今年の下半期がどうなるかを考えてしまいます。

さて、今回は3月に亡くなった偉人について述べていきたいと考えています。その偉人は皆さんもご存じのジョン・F・ケネディが第35代アメリカ大統領に1961年に就任した際に、日本の記者団に「日本で一番尊敬する人物は」と聞かれたときに直ぐにその偉人の名前を挙げたという逸話がある人です。この逸話には裏があり、その点は最後にお伝えしたいと思います。

その偉人である、第9代・出羽国(山形県)米沢藩主の上杉鷹山(以下「鷹山」)は、寛延4(1751)年、日向国(宮崎県)高鍋藩主・秋月種美(あきづきたねみつ)の次男として江戸で生まれました。実母が早くに亡くなったことから、祖母(米沢藩第4代藩主・綱憲(つなのり)の娘)に育てられました。この縁が後に上杉家への養子に繋がっていきました。9歳の時に8代藩主・重定(しげさだ)の養嗣子となり、桜田(現在の法務省の旧本館がある場所で、道路向かいには警視庁がある)の米沢藩邸に移ります。明和3(1766)年に元服し、10代将軍・家治(いえはる)の偏諱を受け治憲(はるのり)と改名します(鷹山と言う名は隠居後に剃髪してからの名前になります)。翌年、上杉家の家督を16歳で継ぎましたが、鷹山が家督を継いだ当時の米沢藩は、深刻な財政難でした。その理由は米沢藩の成立時からの問題にありました。

1600年の関ヶ原の戦いで上杉家が西軍(石田三成側)に立った為、初代藩主・景勝(かげかつ)は当時の領土である陸奥国会津(福島県会津地方)120万石から米沢30万石に減封の上、転封となりました。本来であるならば治める領地が4分の1になったのですから、家臣もある程度は削減しなければならないと思うのですが、その当時の家臣6,000人を1人も召し放すことをせず、また家臣も上杉家に仕えることが誇りとして離れず、他藩と比較にならないほど藩内の人口に占める家臣(武士)の割合が高い状況でした。

このことは人件費だけで藩財政に深刻な負担を与えていました。加えて農村の疲弊や幕府の命令による寛永寺普請、藩内の洪水による被害などが重なって起こり、18世紀中頃には借財(借金)が20万両(現代の通貨に換算して約150億から200億円)に膨れ上がっていました。その為、養父である重定は藩領を公儀(幕府)に返上して、領民救済を公儀に委ねようと本気で考えていたほどでした。ですから鷹山が藩主となる以前から藩は困窮していましたので、藩の財政改革が最優先事項として重く鷹山の双肩にかかっていました。

鷹山の存命中の改革は竹俣当綱(たけまたまさつね)を中心とした産業振興に重きを置いた前期のものと、莅戸善政(のぞきよしまさ)を中心とした財政支出半減と産業振興を諮った「寛三の改革(かんさんのかいかく)」と呼ばれる後期の改革に大別されます。

鷹山の改革は最初から上手くいった訳ではありませんでした。先程もお伝えしたように上杉家の家臣は基本的に誇りが高く、戦国時代の上杉謙信(うえすぎけんしん)の頃を模範としていましたので、上層部は保守的な先例や既得権益を死守することに固執していました。ただこの傾向は上杉家に限った話ではなくて、全国の大名家も同じものでした。以前このコラムでもお伝えしました田沼意次の改革は、農本主義(米主体の経済)から重商主義(貿易等が主体の経済)へ移行しようとしたのですが、保守的な勢力の抵抗にあって頓挫(失敗)していました。

ただ、鷹山の改革の成功は根気よく家臣にその都度説明を行い、何度も妨害等があったのですが、藩主自ら率先して実行していました。実例として藩主の年間の江戸仕切料(生活費)を1,500両から209両余りに減額し、奥女中を50人から9人に減らすこと等を行っていました。また着衣は木綿、羽織や袴だけでなく下着まで着衣の全てで使用し、食事は一汁一菜を基本とし、朝食に粥を二膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夕食に干魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていました。お酒は飲まず甘酒を冬には飲んでいたと言われていました。やはりトップ自らが率先垂範をすることは必要であると考えさせられます。

有名な『成せばなる 成さねばならぬ 何事も 成らぬは人の 成さぬ成りけり』という言葉を皆さんも聞いたことがあるかと思いますが、これは武田信玄の名言『為せば成る 為さねば成らぬ成る業を 成らぬと捨つる人のはかなき』を模範としたものであり、自身の養子である次期藩主・治広(はるひろ)に家督を譲る際に申し渡した3条からなる『伝国の辞(でんこくのじ)』と共に鷹山から伝えられたものです。この伝国の辞はその後、明治の版籍奉還に至るまで、代々の家督相続時に相続者に家訓として伝承されました。

『伝国の辞』

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれ無く候
「国(藩)は先祖から子孫へ伝えられるものであり、我(藩主)の私物ではない」

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
「領民は国(藩)に属しているものであり、我(藩主)の私物ではない」

一、国家人民の為に立たる君にて君の為に立たる国家人民にはこれ無く候
「国(藩)・国民(領民)のために存在・行動するものが君主(藩主)であり、“君主のために存在・行動する国・国民ではない」

右三条御遺念有間敷候事
「この三か条を心に留め忘れることなきように」


鷹山の女系祖先にあたる超有名な戦国大名も実は3月に亡くなっています。その人物とは上杉謙信(以下「謙信」)です。謙信と言えばやはり武田信玄との「川中島(かわなかじま)の戦い」が皆さんにも馴染み深いのではないでしょうか。謙信は戦国大名には稀有の私利私欲で戦いをしない無欲の人でした。戦いで領地を広げるのではなく、「義」を重んじて義理人情に厚い人でした。また一方で関東管領職にこだわり続けた面から、形式にこだわる形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声もあって、謙信は京都へも何度か数人の家臣とともに上洛し、13代将軍・足利義輝と対面しています。その為、大河ドラマの「麒麟がくる」でも、もしかしたら出てくるのではないかと私は少し期待しています。


鷹山の女系祖先にあたる超有名な戦国大名も実は3月に亡くなっています。その人物とは上杉謙信(以下「謙信」)です。謙信と言えばやはり武田信玄との「川中島(かわなかじま)の戦い」が皆さんにも馴染み深いのではないでしょうか。謙信は戦国大名には稀有の私利私欲で戦いをしない無欲の人でした。戦いで領地を広げるのではなく、「義」を重んじて義理人情に厚い人でした。また一方で関東管領職にこだわり続けた面から、形式にこだわる形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声もあって、謙信は京都へも何度か数人の家臣とともに上洛し、13代将軍・足利義輝と対面しています。その為、大河ドラマの「麒麟がくる」でも、もしかしたら出てくるのではないかと私は少し期待しています。

また謙信の領地は越後国(新潟県)なのですが、関東管領職が関東を統治する為の役職である為、関東の多くの領主から後北条家が関東を征服しようとしているのを阻止して欲しいという要望があると三国峠を越えて関東へ出陣していました。その回数が17回に及びましたが、上杉家に関東の領地は全くありませんでした。

鷹山の正室・幸姫(よしひめ 養父・重定の次女)は実は脳障害・発育障害があったと言われています。30歳で亡くなるまで鷹山は側室を置かず、幸姫を邪険にすることなく、女中たちに同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの相手をし、仲睦まじく暮らしていました。重定は幸姫の遺品を手にして初めてその状態を知り、不憫な娘への鷹山の心遣いに涙したと言われています。

幸姫の死後に鷹山は側室を迎えるのですが、側室との子供が夭折してしまったので重定の子を養子に迎えます。普通の藩主ならば年老いてから家督を譲り隠居するのですが、鷹山は35歳で隠居し、養子の治広に家督を譲りました。これは重定の存命中に実子の治広に家督を譲ることで、重定を安心させたいという鷹山の心遣いがこんなところにもあらわれていました。養父や正室への心遣いと同じように家臣や領民にも心を砕いていたと思うので、改革は順調に進み、鷹山の死から2年後には藩の借財は完済されました。現在の米沢市民からも鷹山は尊敬され、親しまれているので歴代藩主は敬称なしで呼ばれることがあっても、鷹山だけは「鷹山公」と公を付けて呼ばれています。これは「謙信公」と2人だけです。  

最後に今回のコラムの最初にケネディの逸話をお伝えしましたが、ケネディよりも前に鷹山を尊敬していたアメリカ大統領がいました。それは第26代大統領であるセオドア・ルーズベルトです。彼が鷹山を知ったのは一つ前の五千円札で現在の私たちにも馴染み深い、新渡戸稲造(にとべいなぞう)が英文で出版した『武士道』を読んだからだとルーズベルト自身が述べていました。おそらくその話をケネディが知っていたからではないと思われます。ルーズベルトは日本とロシア(当時は帝政ロシア)が戦った日露戦争(1904)において、両国の仲介としてポーツマス条約締結に尽力したのですが、この前提には『武士道』に共感したことも少なからず影響していると私は勝手に考えています。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。