家康像
皆さん、こんにちは。東京オリンピック・パラリンピックも終わり、首都圏の一都三県の新型コロナウィルスの感染者数が一時期より減少しつつある中(医療機関の逼迫状況は引き続きではありますが)、季節の変わり目に差し掛かって体調を崩す方が多くなっているようです。皆さんも気温の大きな変化による体調には充分留意してください。

さて今回は9月に起こった歴史的な出来事から、今までとは全く趣向を変えまして歴史の「もしも」を考えていけたらと思っています。その第1弾は天下分け目の戦い、『もしも関ケ原の戦いで西軍が勝利する為にはどうすれば良かったのか』についてその当時の状況から私の想像や願望を加えてお伝えしていこうと思います。

先ずは「関ケ原の戦い」自体がどのようなものであったかについて簡単にお伝えしていきます。「関ケ原の戦い」は皆さんも良くご存じのように、1600年に徳川家康と石田三成が美濃国不破郡関ケ原(別名 青野ヶ原)を主戦場として行われた戦いです。ただ家康が東軍の総大将であったのに対して、三成は西軍の総大将ではありませんでした。西軍の総大将は大坂城で豊臣秀頼を守っていた毛利輝元でした。つまり関ケ原の戦いに西軍の総大将はその場に居なかったのです。では誰が実際の戦いを指揮したかというと家康や輝元と同じ五大老の一人、宇喜多秀家でした。午前10時頃(辰の刻)に戦いが始まると秀家や三成を中心とした西軍は多くの裏切りなどもあって、午後2時頃(未の刻)には戦闘は終わっていました。

「天下分け目の戦い」と呼ばれた大一番が4時間程度で終わってしまったのです。ただ、その後の歴史を皆さんもご存じのように家康はこの戦いで勝利しましたが、まだ秀頼や豊臣恩顧の大名と呼ばれる者たちも多数健在でしたので、家康は更なる戦いをしなければならなかったのでした。それは大坂の陣(冬・夏)ということになります

さて、関ヶ原の戦いには前哨戦と呼ばれる戦いと同時刻に日本各地で行われていた戦いがありました。

有名なのは「上田城合戦」「奥羽出羽合戦」などが挙げられます。「上田城合戦」が真田昌幸・信繁(幸村)率いる真田軍と徳川秀忠率いる徳川本隊の戦いです。歴史の結果から言うとこの徳川本隊は関ヶ原の戦いに間に合わなかっただけでなく、真田軍に勝てませんでした。大雨の影響などで木曽川が氾濫し、関ヶ原の戦いに遅刻したのでした。また「奥羽出羽合戦」は景勝・兼続率いる上杉軍と最上義光・伊達政宗率いる最上・伊達連合軍が山形城周辺での攻防戦です。結果は関ヶ原の戦いが1日、それも4時間程度で終わってしまった為に上杉軍が撤退して終了しました。

私が考える西軍が勝つ為の必須条件は「家康を討ちとらなければならない」ことであったと思います。家康は「街道一の弓取り」として当時日本一の武将であり、カリスマでした。徳川家だけでなく、全国の大名誰もが家康を秀吉亡き後のリーダー・主君と考えていましたし、その家康が生きていたら結局、秀頼を中心とした豊臣政権はいつか倒されてしまうからです。その家康を討つポイント(タイミング)が幾つかあったかと思われます。

第1のポイントは関ヶ原の戦いの前に起こった上杉征伐の際の「小山評定」後の東軍の西進に対する追撃です。

この時、家康は豊臣家の大老であり秀頼の代行者として反逆者である景勝と兼続を討つ為に出陣していました。(単に「直江状」に怒って出陣したのではないかとも言われています)

しかし大坂で三成とその仲間が挙兵し伏見城を攻め、落城させた報告を受け家康は西進を決意します。この辺りは家康も大坂を不在にしている間に三成が挙兵することを見越していた感もあります。実は家康だけでなく、ほとんどの武将がそう思っていたはずです。また、徳川本隊は嫡男・秀忠に率いられ、中山道を西進し、その他の武将も先行して東海道を西進しましたから、家康の周りには多くの兵はいなかったはずです。この時に西進を追って、上杉軍及び中立を保ってはいましたが、三成や上杉家と繋がっていた常陸の佐竹家が家康の本拠地江戸城へ雪崩れこんでいけば家康を討てた可能性は充分にありました。

当時の江戸城はまだまだ建設途中で、全盛期のような形にはなっていないものでしたので、籠城することも不可能でしたし、何といっても家康自身が籠城戦を苦手としていましたので、上杉・佐竹連合軍ならば確実に討ち取ったはずです。さらに伊達政宗も上杉家や佐竹家とは親戚同士であり、「生まれるのがもう少し早かったなら(生まれてくるのが遅すぎた)」と政宗自身が悔やんだという逸話もあるくらい天下を望んでいた人物でしたので、共闘したと考えられます。更に母親の実家である最上家も利に敏い義光ですし、上杉・佐竹・伊達の連合軍には勝てませんので同心したかと思います。

この「小山評定」後の西進に対して追撃を行った場合は「奥羽出羽合戦」は行われなかったことになります。この西進による江戸城攻撃により家康が討死した場合、「上田城合戦」も違った様相になります。家康討死の報が届けば、徳川家の当主は秀忠になります。秀忠としては父の仇討として、江戸へ戻ってきて連合軍と戦うはずですが、しかし秀忠には家康ほどの人望やカリスマ性はなく、また戦上手ではなかったので勝てる見込みはほぼ無かったかと思います。実際、関ケ原の戦いに臨んだ家康は戦闘が開始する時に「息子がここに居たら、こんな苦労はしなかった」と言ったと伝わっています。因みにこの息子とは、自身の手で殺してしまった、嫡男・岡崎三郎信康のことでした。

秀忠が戻ってくるにしても上田城の真田家がその後を追って攻めてきたはずですので、結局は挟み撃ちにされて負けたはずです。その際に総大将の秀忠まで討死していたら徳川家に残るのは4男以下の男子ですが、徳川家を差配するほどの人物は居なかった状況でしたので、徳川家はただの一大名になってしまったか、滅ぼされてしまったかと思います。

第2のポイントは、これも関ヶ原の戦いの前に秀忠率いる徳川本隊が中山道を進行した際の追撃、「上田城合戦」への援軍派兵です。先程の「小山評定」での西進に追撃を行ったとしても全軍ではなく、一部を中山道から徳川本隊を追撃して真田家と挟撃することが出来たはずです。そうすれば一方で家康を討ちに向かい、もう一方で秀忠や徳川本隊を潰せることが出来、西軍にとっては申し分のない戦いの進め方であり、結果を得られたと思います。東軍に味方する豊臣恩顧の大名達は三成憎しという理由で家康に付いてきていますが、その裏には家康が今の三成などが進める政治や政策に反対していたからで、秀頼を憎んでいた訳ではなく、家康によって三成が排除出来ればそれで良かったのです。その排除してくれるであろう家康が居なくなったら、家康に味方する必要もなく、新たに三成を排除してくれるであろう武将に付いていけば良いという超現実的な思考であったと考えれます。それが上杉でも佐竹でも、伊達でも誰でも良かったように思えます。

第3のポイントは、野戦が得意な家康の策にはまったが、関ヶ原に布陣をせずに、松尾山城や大津城などの関ヶ原周辺の城に兵を分散配置し、時間をかけて戦いをするようにしたらどうであったか。

先程も書いたように家康は「海道一の弓取り」として当時日本一の武将であり、率いられた徳川軍は武田信玄、上杉謙信亡き後、戦国最強の軍隊でしたから、その家康が望むようなことを避けるべきでした。ただ時間をかけると中山道を進んでいる徳川本隊がやってくるので、それを迎撃する部隊を派遣する必要はあり、それには大津城攻めを行っていた西軍の中でもその強さは群を抜いていた立花宗成や島津義弘などを向かわせるのが良かったかと思います。宗成は秀吉から「豪勇鎮西一」と称された勇猛な武将で、清正や正則もその人となりには敬意を払っていましたし、義弘は文禄・慶長の役で2千の兵で10万の明軍と戦い勝利して、その勇名は朝鮮半島だけでなく、明まで広がっていた程の武将ですので、相手の戦意を削ぐのには充分であったと思います。

第4のポイントは、根本的な部分で西軍の指揮は三成ではなく、大谷吉継に任せるべきであったと思います。吉継は秀吉が生前、「100万の兵を与えて自由に指揮させたい」と言っていたほど軍略などに長けていて、また戦いにおいては三成が後方に居るのとは違い、前線で戦う武将でありました。その為、清正や正則などの武闘派からも信頼されていました。仮に吉継が作戦の全てを担っていると分かったら、清正や正則は家康には従わなかったかもしれません。 三成が後方(大坂城)に控えて秀頼を守護していたら、または三成自身は大坂城の留守居役をし、秀頼を守護していた毛利元就が秀頼を従えて戦場に出陣していたら、実際の関ケ原の戦いで裏切った武将や全く動かなかった毛利勢、東軍に属していた正則や池田輝政や黒田長政などは西軍に付いていたかもしれません。つまり三成は自身が前面に出すぎてしまい、本来先頭や前面に立たなければいけない武将などを軽視していたのかもしれません。そこが三成の性格や度量、作戦の限界であったのかもしれないし、その三成に諫言出来る家臣や仲間が居なかったのが関ケ原の戦いの敗因に直結していたのかもしれないです。やはり三成は秀吉という天下人あっての人物(家臣)であって、彼無くしては成り立たない、彼の手のひらで踊る傀儡(くぐつ・操り人形)であったのかもしれないですね。