皆さん、こんにちは。9月に入り、超大型の台風が上陸して甚大な被害が報道されています。最近の台風はその勢力が長い間強く、それに比例して被害も大きくなっています。台風11号が沖縄県大東島地方に接近した際の最大瞬間風速が75M/Sという勢力でしたし、今週の14号に至っては「第二室戸台風」や「伊勢湾台風」並みと言われていました。

気象庁が発表している「風の強さとその影響・危険度(一部)」については以下の通りですが、全てを薙ぎ倒して吹き飛ばしてしまう。台風が通り過ぎた後は何も残らなかった、みたいなことを考えてしまいました。

・15~20M/S 風に向かって歩けない
・20~25M/S 細い木が折れる・看板落下
・25~30M/S 走行中のトラックが横転
・30~45M/S 家が倒壊の恐れ

今まさに台風シーズンですし、その勢力は年々巨大化してますので、甚大な被害にならないように常に準備しておくようにしないといけないですね。

エリザベス女王の国葬をこの週末テレビで観ましたが、如何に国民から愛されていたかを知り、葬儀の威厳と格式、更にはウェストミンスター寺院の豪華さ等に見入ってしまいました。

さて、今回は9/4の放送から本格的に出てきました「三代目・鎌倉殿」である源実朝(みなもとのさねとも)、以下「実朝」について述べていきたいと思っています。

皆さんもご存じの通り、実朝は初代鎌倉殿である頼朝と正室・北条政子(以下「政子」)の嫡出の次男として、1192年に鎌倉で生まれました。この年はまさに父である頼朝が「征夷大将軍」に任命された年であり、頼朝にとって様々なことが絶頂の時期にありました。そういった意味において、実朝自身の意思とは関係なく生まれながらにして権力の中枢に居ることになりました。

実朝の生涯について簡単に述べていくと、1203年9月比企の変によって二代目・鎌倉殿である兄頼家が将軍職を失い、伊豆国修善寺に幽閉されます。この比企の変は頼家が急病となり、助かる見込みがないと判断され、出家(この当時は死に瀕した時に出家をする)させられてしまいます。そこで、次の鎌倉殿を誰にするかで北条氏と比企氏が争い、結果比企氏が1日で滅亡します。頼家にとって比企氏は後ろ盾であった為、奇跡的に命を取り留めても結果として、亡き者にされてしまいました。北条氏によってかなりグレーな感じで将軍職に就き、三代目鎌倉殿になった実朝(征夷代将軍に就任した時は元服前の千幡)ですが、その当時11歳でした。翌年元服し、後鳥羽上皇の命名によって「実朝」となりました。1204年後鳥羽上皇の従妹でもある坊門信清の娘である西八条禅尼を正室(御台所)に迎えます。

1205年以降、実朝の官位は武士としては異例のスピードで上がっていきます。

・1205年 正五位下 右近衛権中将
・1207年 従四位上(1月)、正四位下(12月)
・1209年 従三位 右近衛中将 公卿となる
・1211年 正三位
・1212年 従二位
・1213年 正二位
・1216年 権中納言 左近衛中将兼任
・1218年 権大納言(1月)、左近衛大将(3月)、内大臣(10月)、右大臣(12月)

この急激な官位の上昇に義時や大江広元などの幕府首脳は危惧していました。官位が上がることは幕府や鎌倉殿の権威を高めることを意味していましたが、同様に朝廷の権威にも縋っていることを意味して、幕府としては朝廷とは一線を引き、御家人による独自の政権を目指していたからでした。

1219年1月に雪が2尺ほど積もる日に昇進を祝う祝賀が鶴岡八幡宮にて行われました。その夜神拝を終え、退出の最中に「親の敵はかく討つぞ」と叫ぶ甥・公暁(くぎょう)に大銀杏(今はありません)の前で襲われ、落命しました。将軍に就任して17年、28歳でした。

この28年の人生の中で、実朝は文化的な遺産を私たちに残しています。「金槐和歌集(きんかいわかしゅう)」です。「金」は鎌倉の偏を表し、「塊」は塊門(大臣の唐名)を表している為、別名「鎌倉右大臣集」とも言われている。この歌集にある歌は後鳥羽上皇への敬慕や思慕が多く、実朝の京への憧れや思いに溢れているようです。江戸時代の国学者・賀茂真淵(かものまぶち)に賞賛されて以降、松尾芭蕉、正岡子規(明治の歌人・俳人)、斎藤茂吉(大正から昭和前期の歌人)、小林秀雄(近代日本の文芸評論家)などから実朝は最大級の賛辞を送られています。中でも芭蕉は中世の歌人と言えばと弟子に聞かれた際に「西行と鎌倉右大臣」と答えたと言われています。

私が推論する実朝が目指していた幕府は、ある意味で父である頼朝が目指した政権であったように思えます。頼朝は武力によって幕府の成立や存在を朝廷に認めさせて、朝廷と幕府が共存するように朝廷に働きかけていましたが、実朝は別の方法である文化的にも幕府を朝廷に認めさせようとして、朝廷に従順な態度を取っていたように思えます。それは幕府が北条氏によって全てが行われ、他の御家人も北条の顔色を伺うような風潮や状況が鎌倉殿として許せなかったのかも知れません。官位を上げること、歌を作り後鳥羽上皇や当時の歌人の第一人者である藤原定家などと親しくするのも朝廷や公家との融和を目指していたと考えられます。

しかし、一方で幕府を御家人の為の政権として武力を中心に日本全土を統治していこうと考える北条氏を中心とした政権首脳部にとって、この考え方は危険でした。朝廷に取り込まれてしまうのは絶対に回避しなければならない。その為、官位上昇に苦言をしていましたが、御家人も鎌倉殿である実朝の命令を無視することもあり、溝が出来ていたのではないかと思われます。

例として、日光に住む畠山重忠の末子・重慶が謀反を企てるとの報が届きます。実朝は長沼宗政に生け捕りを命じるが、宗政は重慶の首を斬り帰参した。実朝は「重忠は罪無く誅をこうむった。その末子が隠謀を企んで何の不思議が有ろうか。命じた通りにまずその身を生け捕り参れば、ここで沙汰を定めるのに、命を奪ってしまった。粗忽の儀が罪である」と述べると嘆息し、宗政の出仕を止めさせます。それ伝え聞いた宗政は眼を怒らし「この件は叛逆の企てに疑い無し。生け捕って参れば、女等の申し出によって必ず許しの沙汰が有ると考え、首を梟した。今後このような事があれば、忠節を軽んじて誰が困ろうか」と述べたと言われます。鎌倉殿の命令を御家人個人が勝手に変えて、更に自己の行為を正当化しようとしているのが明らかであり、鎌倉殿である実朝を軽んじ、脅している証拠と言えると思いますね。

これらの原因というか、実朝にとって不幸だったのは幾つか理由があります。第一に頼朝の死が早かったこと。第二に乳母に政子の妹である阿波局がなったこと。第三に先祖代々の家の子(直臣)が居なかったことではないかと私は思います。

第一の理由としては実朝が7歳の時に頼朝が亡くなったのですが、まだ幼年期である実朝を本当の意味で守ってくれるのは、父親であり絶対権力者である頼朝しか居なかったのです。皆さんは母親の政子が居るではないかと考えると思いますが、政子にとって子である兄・頼家や実朝のことは大事ではありますが、この当時の武士やその家族にとっては血を分けた子ではなく、「家(生家)」や「土地(領地)」が最も大事だったのです。このことは実朝の兄である頼家にも言えます。あと3年から5年頼朝が長生きしていたら、頼家への政権移譲も上手くいき、御家人の横暴も許さない鎌倉殿の権威も盤石になっていたはずです。そうすれば実朝が鎌倉殿になることもなかったと思います。

第二の乳母が阿波局であったこと、阿波局は政子の妹であり、北条氏出身でありました。大河ドラマでも政子や義時の父である時政が鎌倉殿の外戚として幕府内で権力を手中に収めようと様々な手を使って、他の御家人たちを倒していく様が描かれています。何故これほど北条氏が権力に執着したのか、それは北条氏が他の御家人よりもその力が元々小さかったからです。その為、頼朝に一族の将来をかけたのでした。そんな北条氏の一員である阿波局も自身が手塩にかけて育てた実朝を元にした自身の乳母としての権力や一族の栄達が最優先になるのであり、また母親であり、姉である御台所・政子に対抗心を見せ、政治の中枢に入ってくるようになっていきました。

第三の理由は私の心情的なものでもあるのですが、実朝を本当の意味で命を懸けて守ってくれる「傅役(ふえき)」、時代劇などでよく出てくる「爺」や子飼いの家臣(直臣)が居なかったことが挙げられるのではないかと思います。これは頼朝が20年間(13歳から33歳)を流人として生きてきたことや平治の乱で源氏が平家に負けたことが影響していると思います。有力御家人と呼ばれる者たちには当然子飼いの家臣がいました。しかし頼朝には居なかった。当然頼家や実朝にも居ませんでした。将軍に武力も含めた力があれば、北条氏や比企氏といった外戚の御家人が権力争いを繰り広げることもなかったでしょうし、幕府内での将軍の力は御家人にとって絶対なものになっていったのではないかと思います。

実朝は亡くなる数年前から、自身の居場所がないことを感じていたように思われます。和歌を作ることも京に憧れていた現れですし、東大寺大仏の再建を行った宗人の僧・陳和卿(ちんわけい)に御所で対面すると、陳和卿は実朝を3度拝み泣いた。実朝が不審を感じると、陳和卿は「貴客は昔宋朝医王山の長老たり。時に我その門弟に列す。」と述べる。実朝はかつて夢に現れた高僧が同じことを述べ、その夢を他言していなかったことから、陳和卿の言を信じた。その後、前世の居所と信じる宋の医王山を拝すために渡宋を思い立ち、陳和卿に唐船の建造を命じる。義時と広元はしきりにそれを諌めたが、実朝は許容しなかった。1217年4月、完成した唐船を由比ヶ浜から海に向かって曳かせるが、船は浮かばずそのまま砂浜に朽ち損じて、実朝の渡宋の夢は儚く散ってしまいました。この渡宋計画は自身の居場所がないと思っていたから鎌倉から出て行きたいと考えていたように思いますね。

『吾妻鏡』によると、実朝自身死の予見があったのか、出発の際に広元は涙を流し「成人後は未だ泣く事を知らず。しかるに今近くに在ると落涙禁じがたし。これ只事に非ず。御束帯の下に腹巻を着け給うべし」と述べたが、源仲章は「大臣大将に昇る人に未だその例は有らず」と答え止めた。また整髪を行う者に、記念と称して髪を1本与えている。

庭の梅を見て詠んだと伝わる辞世の和歌は、「出でいなば 主なき宿と 成ぬとも 軒端の梅よ 春をわするな」で「禁忌の和歌」と評される。

落命の場は八幡宮の石段とも石橋ともいわれ、また大銀杏に公暁が隠れていたとも伝わる。『承久記』によると、一の太刀は笏に合わせたが、次の太刀で切られ、最期は「広元やある」と述べ落命したという。

公暁による暗殺については、実朝を除こうとした「黒幕」によって実朝が父(頼家)の敵であると吹き込まれたためだとする説がある。ただし、その黒幕の正体については義時、三浦義村、北条・三浦ら鎌倉御家人の共謀、後鳥羽上皇など諸説ある。またそれらの背後関係よりも、公暁個人が野心家で実朝の跡目としての将軍就任を狙ったところにこの事件の最も大きな要因を求める見解もあります。

実朝は長老たちの話しを聞くのが好きだったらしく、大河ドラマの中でも和田義盛の邸に息抜きに行って見たり、重忠など数々の有力御家人が北条氏に滅ぼされるのを見てきたのですが、頼朝挙兵時からの最長老である土屋宗遠との関係性をみることでその人間性の一旦が分かるような気がしますので、最後にお伝えしたいと思います。

宗遠は齢九十にして、鎌倉に赴き将軍源実朝に面会しています。和田義盛の乱から五年後のことです。このことは乱で、宗遠は三浦一族から養子を迎えていて、その養子は和田方に味方し戦死しているが処断されることはなかったということを示しています。また、それだけではなく、将軍実朝が直々に会うと言うことは、頼朝旗揚げ以来の重鎮として厚く遇していたことを物語っています。当時、宗遠は阿弥陀寺を建て、出家して空阿と号していました。金槐和歌集にはそのときの様子が次のように書かれています。

「相模の土屋という所に、年九十をこえた老法師が居ります。たまたまやってきましたが、昔話をしたついでに、体の立ったり座ったりすることが自由にならなくなったことを泣く泣く申して退出しました。そのとき老いということを題にして人々に命じて歌を詠ませた折りに詠みました歌」として、続けて実朝は宗遠の立場になって五首の歌を詠んでいます。

父頼朝の旗揚げから源氏の三代の将軍に仕えた宗遠に対する実朝の温情があふれる五首です。

「我いくそ 見し世のことを 思ひいでつ あくるほどなき 夜の寝覚めに」
(私は自分が経験したこの世の出来事を何度も思い出したことか。明けるのも間近い夜の寝覚めに)

「思ひ出でて 夜はすがらに ねをぞなく ありし昔の 世々のふるごと」
(ありし日の様々なことが思い出されて夜通し声を上げてなくことである)

「なかなかに おいはほれても 忘れなで などか昔を いとしのぶらむ」
(老いて呆けてしまっても、かえって昔のことは忘れないで、どうしてこんなに偲ぶのであろうか)

「みちとおし 腰は二重に かがまれり つえにすがりてぞ ここまでもくる」
(ここ(鎌倉)までの道は遠かった。腰は二重に曲がってしまった。杖にすがってようやくやってきました)

「さりともと 思ふものから 日をへては しだいしだいによわるかなしさ」
(それにしても、自分はまだ元気だと思うものの、月日を経て、しだいによわっていくことの悲しさよ)