皆さん、こんにちは。安倍元総理銃殺事件や新型コロナウィルスの感染第7波、そしてついには桜島の噴火と日本は今、激しく揺れています。早々と政府は安倍元総理の葬儀を「国葬」にて執り行うことを決定しましたが、本当に国葬にすべきなのか内心疑問がありますし、その前に国民の生活や命を守るべく政策等を最優先に講ずるべきなのではないかと考えてしまいます。個人レベルではやはり体調管理を徹底すること。マスク着用に手洗い、うがいを行い、自身が感染しないように注意することが周囲の人たちの命や生活を守るということを再度認識するようにしないと、この感染の爆発は止められないと思います。

さて、今回は歴史に詳しくない人でも好きな時代、戦国時代。その中で起こった超有名な戦いについて述べていきたいと思います。その戦いとは戦国最強と謳われた武田騎馬隊を率いる武田晴信(後の信玄、以下「信玄」)と軍神、越後の虎と呼ばれた戦の天才、長尾景虎(後の上杉謙信、以下「謙信」)の5回にわたる「川中島の戦い」についてです。

実はこの「川中島の戦い」はその周辺で起こった5つの戦いの総称なんです。細かい話をしますと5回の戦いには全て別名があります。5つの別名は以下の通りです。

第1次(1553年):布施の戦い、あるいは更科八幡の戦い
第2次(1555年):犀川の戦い
第3次(1557年):上野原の戦い
第4次(1561年):八幡原の戦い
第5次(1564年):塩崎の対陣

と言ったような別名があり、この内、最大の激戦となったのが、第四次の八幡原の戦いです。千曲川と犀川が合流する三角状の平坦地である「川中島(長野県中野市南郊)」の八幡原史跡公園周辺が主戦場だったと推定されています。この戦いが様々なドラマや映画で描かれていて、信玄と謙信の一騎打ちがあったと言われていますが、実際にはなかったと私は考えています。史跡公園には信玄と謙信の一騎打ちの様子を示した銅像があります。

ここで簡単に総称「川中島の戦い」の経緯をお伝えします。皆さんもご存じの通り、信玄と謙信の領国は信玄が甲斐国(山梨県)、謙信が越後国(新潟県)です。この二人にとって川中島は先ほどもお伝えした千曲川と犀川が合流する地点で、越後と信濃を結ぶ交通の要所であり、肥沃な土地でした。謙信にとっては自国に繋がる要所、また自身の本城である「春日山城」の目と鼻の先。ここまで信玄の領土が拡大すれば、いつ自分の本拠地・越後に攻め込まれてもおかしくありません。領土維持の為に良好な関係にある小豪族たちに治めてもらいたい。一方で信玄にとっては自国の甲斐国が豊かな国とは言えない為、肥沃な土地を求めて領土拡大をせざるを得ない状況であり、この地域の小豪族勢力と戦っていました。そして信玄に敗れた者たちが助けを求めたのが、「義」に厚い謙信であり、2人の武将がぶつかるのは必然であったと思われます。

実はこの「川中島の戦い」と称される戦いは「戦国史上もっとも謎に満ちた戦い」と言われています。非常に知名度の高い戦いにもかかわらず、その実態がほとんど分かっていないからです。現在の定説のベースとなったのは、武田氏の戦略・戦術を記した軍学書「甲陽軍鑑(こうようぐんかん)」ですが、明治時代には資料的価値を疑われています。現在は再評価されていますが、なお事実誤認の部分も多いのは明らかです。

他にこの戦いに関する信頼の置ける1次資料がほとんど存在せず、通説では5回の合戦があったとされているものの、2回だったと主張する学者もいるほどです。この時期に信玄と謙信の間に大きな戦いがあったことは間違いないのですが、勝敗がはっきりついていないために、どちらも積極的に記録を残さなかったのではないか、とも考えられています。

川中島の戦いをここまで有名にし、ドラマチックな合戦として数々の軍記物語に取り上げられてきたのは「戦国随一の武将である信玄と謙信が一騎打ちをした」とされている為です。しかしその信憑性は研究者の中でも疑問視されています。戦国最強の武田の騎馬隊を率い、敵なしと思われた信玄ではありますが、謙信のことは「日本無双の武将」と非常に高い評価をしていました。その為、そう簡単には勝てないと判断し、のらりくらりと直接対決を避けていました。5回の川中島の戦いも激戦となった第4次を除いては両者はにらみ合ったまま撤退するということを繰り返していました。

しかし、策を弄して直接の戦いを避けようとする信玄にしびれを切らした謙信が戦いから逃げられないようにと挑んだのが第4次川中島の戦いだったと言われています。とはいえ、総大将が自ら敵陣に乗り込むようなことは通常あり得ないというのが定説です。

では、第4次川中島の戦い・八幡原の戦いについて述べていくことにします。この第4次が起こる前提として幾つかの要因があります。

まず第1に当時の信玄と謙信のおかれた立場があります。当時の謙信は、将軍・足利義輝から上洛を促されるほど、無敵を誇る「軍神」、「越後の虎」の異名は室町幕府の勢力回復を願う将軍のいる中央・京都まで轟き渡っていました。また関東に勢力を伸ばす北条氏康に敗れ、越後に追いやられていた関東管領・上杉憲政らによって上杉氏の家督と関東管領職を受け継ぎ、任命されてこの頃から度々関東へ出兵しています。その出兵で謙信が居ない状況を見逃す信玄ではなく、北信濃に海津城を築城し、そこを拠点に勢力拡大を着々と図っていました。信玄の方も謙信と戦う為に武田・今川・北条の三国同盟(甲相駿同盟)を結び、後顧の憂いなく戦っていましたが、1560年に桶狭間の戦いで織田信長によって義元が敗死した為、同盟に小さな亀裂が生まれてしまいました。その亀裂によって同盟のパワーバランスが弱まり、そこに謙信が北条を討つ為に兵と共に向かい、関東の多くの豪族を味方につけ10万もの軍勢で北条の本拠地・小田原城を包囲しました。結果として小田原城は籠城戦の末、持ちこたえ謙信は越後に戻っていきます。ただ謙信が越後に戻った最大の理由は信玄の北信濃への侵攻でした。

第2に今までのらりくらりと逃げていた信玄に対して謙信が直接対決をせざるを得ない状況を作り出したためです。信玄は本来「戦わずして勝つ」というのを目指して戦いの前に様々な調略を行うのを得意としていました。しかしこの時は逆に謙信が調略を行っています。「甲陽軍鑑」に1560年11月武田氏一族の「勝沼五郎」が謙信の調略に応じて謀反を起こし、成敗されたと記載されています。この勝沼五郎とは信玄の父、信虎の弟である勝沼信友の子、信元(信玄にとっては従弟にあたる)であったと言われています。つまり信玄にとってかなり近い身内に対して謙信が調略を行うことで、信玄を挑発していたのでした。

1561年9月、軍師・山本勘助の提案で兵を二手に分けて、信玄率いる本隊8,000は八幡原に鶴翼の陣で布陣し、高坂昌信、馬場信房が率いる本隊よりも規模の大きな別動隊12,000を妻女山へ向かいます。山にいる上杉軍をつついて平野に追い込み、そこを待ち伏せて勝つという作戦です。この作戦は木をつついて驚いて飛び出した虫を食べる啄木鳥(キツツキ)に似ていることから「啄木鳥戦法」と名付けられました。

ところが、海津城からの炊煙の量が増えていることから、謙信は武田方の作戦を察知します。恐るべき観察眼ですね。謙信は一切の物音を立てないように兵に命じ、夜の間に妻女山を降り、ひそかに八幡原に布陣しました。翌朝、深い霧が晴れて目の前に謙信が現れたとき、信玄は愕然とします。そこへ上杉軍の攻撃が始まりました。出し抜かれた形の武田軍は劣勢となり、信玄の弟で副将の信繁、軍師・勘助など名だたる武将が討ち死にする結果となりました。

武田軍の別動隊は攻め込んだ妻女山がもぬけの殻であるのに気づき、慌てて八幡原に向かいます。それまで優勢であった上杉軍は逆に形成不利に陥ります。両側から武田軍に攻められる形となり、乱戦となった結果、総大将・謙信自ら信玄本陣へ突入します。ここで床几に座る信玄に謙信自ら切りかかり、信玄はこれを軍配で受け止めますが、肩を負傷します。家臣が謙信の馬を刺して信玄は助かったというのが、2人の一騎打ちの有名なシーンになります。「甲陽軍鑑」には前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ちと書かれています。合戦後には両軍ともに勝利を主張していますが、明確な勝敗はついていません。

上記の内容は「甲陽軍鑑」によるもので、諸説があり啄木鳥戦法などなく、謙信も妻女山に布陣しておらず、両軍とも霧の中で意図せず遭遇して衝突した結果だったという説があります。常識として死傷者8,000人にも及び前にどちらも撤退しなかったのは、濃霧で大混戦となり、いたずらに死傷者を増やしたためではないかと考えられるからです。

八幡原の戦いの後も謙信が関東へ攻め入るたびに信玄は北信濃へ侵攻します。しかし第5次・塩崎の対陣と呼ばれるように合戦は無く対陣で終わっています。これ以降は信玄は今川義元亡き後の東海道を攻め、謙信は関東に注力し北信濃での勢力争いは終止符が打たれる形となりました。 

しかし、12年に及ぶ川中島の戦いは決着がつかないまま終わり、比類なき名将同士の戦いであり、歴史に残る名勝負と言えますが、武田・上杉双方にとっては痛恨の戦いだったと言えます。

信玄と謙信という2人の最強の武将が長い戦いを信濃で繰り広げている間に、西では信長が台頭し、天下統一へ駒を進めていきました。もしも信玄と謙信が同盟を結んで信長に対抗していたら、あるいは歴史は大きく変わっていたかもしれません。もしくは信玄か謙信、どちらかがこの戦いに勝っていても、信長にとっては大きな脅威となったであろうと言われています。数年後には信玄も謙信も上洛を目指しながら志半ばで亡くなってしまったのは、信長や家康にとっては運が良かったと言えます。勝負はつかなかったものの、川中島の戦いは戦国史を語る上で、非常に重要な戦いだったと思います。

武田、上杉双方にとっても後の歴史の流れをみると重大な戦いであり、信繁と勘助の討ち死には武田家にとっては耐え難い損失であったように思えますね。 最後に信玄と謙信の一騎打ちを詠んだ、江戸時代後期の歴史家、漢詩人である頼山陽(らいざんよう)の漢詩、「川中島」を紹介して終わりたいと思います。

鞭聲粛々、夜河を過る。
(べんせいしゅくしゅく よるかわをわたる)
暁に見る、千兵の大牙を擁するを。
(あかつきにみる、せんぺいの たいがをようするを)
遺恨十年、一剣を磨き、
(いこんなりじゅうねん いっけんをみがき)
流星光底、長蛇を逸す。
(りゅうせいこうてい ちょうだをいっす)

【意味】
(謙信軍は)鞭の音もたてないように静かに、夜に乗じて川を渡った。明け方、信玄軍は、上杉の数千の大軍が大将の旗を立てて、突然面前に現れたのを見て、大いに驚いた。しかし、まことに残念なことに、この十数年来、一剣を磨きに磨いてきたのに、打ち下ろす刃がキラッと光る一瞬のうちに、あの憎い信玄を討ち漏らしてしまった。