町田康の「生の肯定」(2017年、毎日新聞出版)にこんな一節が登場するのですが、このなかで語られている「ゲルピン」という言葉は、いったい何のことなのでしょうか? 「俗に言う、ゲルピンだったのかな。と子供心に思った。いまの若い人にゲルピンなんて言ってもわからないかな、ゲルピンとは素寒貧(すかんぴん)のことである。 素寒貧もわからないかな。早く言えばオケラということである。今回は、懐かしの言葉「ゲルピン」について掘り下げます。もちろんこれは、お金に関係する言葉です。

ゲルピンとは「貧乏」のこと

困った時の広辞苑。さっそく広辞苑(第7版)を引いてみると、ちゃんと「ゲルピン」の項目がありました。語釈にはこうあります。

「金(かね)に窮していること。金がないこと」。つまりゲルピンとは「貧乏」を意味する言葉だったのです。

ここで疑問に思うのは「なぜゲルピンが貧乏を意味するのか」ということでしょう。これについて広辞苑は次のように説明しています。

「『ゲル』は『ゲルト』の、『ピン』は『ピンチ』の略」。なるほど「ゲルトのピンチ」を略して「ゲルピン」と表現するのですね。

では、ゲルトとは何なのか? そこで再び広辞苑(同)でゲルトを引くと「ゲルト【Geld ドイツ】かね。金銭。ゲル。」とありました。

そう。ゲルトの正体は、ドイツ語で金銭を意味するGeld(ゲルト)のことだったのです。

このゲルピンという俗語は、おおよそ明治時代から戦後まで、主に若い人が使っていました。

演歌歌手の北島三郎が、下積み時代に「ゲルピンぽん太」としてギター漫談を披露したとの逸話も残っていますが、それは1961年の出来事なのです。

しかし最近では、ゲルピンという言葉を世間であまり聞かなくなりました。

ゲルナシも、ゲル欠も、貧乏のこと

面白いことに、かつてゲルピンには、様々な仲間が存在していました。例えば「ゲルナシ」はゲルがないこと。「ゲルヒン」はゲルに貧していること。

「ゲル欠」は、ゲルが欠乏していること。いずれも貧乏のことを意味していました。「ゲルピー」のように、造語の過程が想像しにくい語形もありましたが、これも貧乏を表していたようです。

とりわけ興味深いのは「カインゲル」という表現。このうち「カイン」の部分は、ドイツ語のkein(カイン)に由来しており、これは英語のnoに相当する表現なのだそうです。

つまりカインゲルとは、英語風に言えばノーマネーのことを意味しており、これも貧乏を意味する言葉であったわけです。

また、かつての学生語のなかには「ゲルピン横丁」という表現もあったのだそう。これは「学生寮」を意味する言葉。寮生の多くが貧乏であったことに由来する表現でした。

明治以降の高等教育で培われたエリート意識

2018年の現代から見ると、ドイツ語が語源である外来語は、比較的珍しい存在のように思えます。しかしかつて日本の若者語では、ドイツ語の存在感が大きい時期がありました。

明治前期の大学生や、明治後期以降の旧制高校の生徒たちが、好んでドイツ語由来の外来語を使っていたのです。

当時の大学や旧制高校において「ドイツ語で行われる授業」も盛んだったことが背景にあります。学生たちのエリート意識が、ドイツ語由来の俗語を数多く誕生させたのかもしれません。

ちなみに、明治以降のドイツ語由来の学生語には、このほかにも「ガンツ」という表現もありました。語源はドイツ語で「完全に」「まったく」を意味するganz(ガンツ)。

例えば「あの映画はガンツ面白い」とか「指導教官にガンツ叱られた」などの言い方があったといいます。

比較的最近の若者語であれば「超」などで代替できる表現かもしれません(「あの映画は超面白い」「指導教官に超叱られた」など)。

ともあれ。最近でこそ「カタカナ語といえば、英語からの流入が主である」という感覚もありますが、明治以降の一時期「そうとも限らなかった時代」が続いていたことは、知っておくとよいかもしれません。

参考:「若者語を科学する」米川明彦著、明治書院、1998年3月

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もり・ひろし

新語ウォッチャー。1968年生まれ。電気通信大学卒。CSK総合研究所(現CRI・ミドルウェア)を経て、新語・流行語専門のフリーライターに。辞書・雑誌・ウェブサイトなどでの執筆活動を行う。代表的連載に日経ビジネスオンライン(日経BP社)の「社会を映し出すコトバたち」、現代用語の基礎知識(自由国民社)の「流行観測」欄など。