さて、今回も先月に引き続き、7月に亡くなった歴史上の人物について述べていきたいと考えています。7月に亡くなった歴史上の有名な人物で今回取り上げるのは「明智玉<珠>(あけちたま)」になります。この女性はこの名前よりもキリシタン教徒としての通称「細川ガラシャ」という名前の方が皆さんもご存じかと思います。
ガラシャは永禄6(1543)年、明智光秀(あけちみつひで)の三女として越前国(福井県)で生まれました。主君である信長の勧めによって、父である光秀(あけちみつひで)の生涯の盟友である細川藤孝(ほそかわふじたか)の嫡男・忠興(ただおき)と結婚したのは、15歳の時でした。この時の光秀は既に坂本城城主であり、織田家臣団の筆頭重臣となっていました。夫になった忠興は藤孝と同じように文武両道の武将で、茶人・細川三斎(ほそかわさんさい)としても有名で、千利休の弟子の中でも特に優れた者を差す「利休七哲(りきゅうななてつ)」の一人に数えられ、茶道の流派「三斎流」の開祖でもあります。
性格は家臣が記したとされる書物の中に「忠興は天下一短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷(がもううじさと)であると書かれています」また、光秀からある戦の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と諭されていたようです。生きるか死ぬかの極限の状態である戦国時代を生きていく武将として、ある意味でこのような性格も仕方ない部分はあるのではないかと思いますね。ガラシャと忠興の生活は忠興の性格を理解し上手くいっていたと思いますし、忠興のガラシャへ愛情は深く、結果として子供は3男2女に恵まれました。
ガラシャの人生は2つの事件によって大きく変わってきます。まず最初の事件は「本能寺の変」です。実の父である光秀が主君・信長を本能寺の変で討って、その後の山崎の戦いで秀吉に敗れ、亡くなると生活環境は急激に変化します。所謂「逆臣の娘」とガラシャなります。本来ならば「逆臣の娘」を正室にしている場合、即刻離縁して実家に戻すのがこの時代の通例ですが、忠興のガラシャに対する愛情の深さ故に、丹後国味土野(京都府京丹後市弥栄町)に逆臣として狙われるのを防ぐため隔離・幽閉しました。この隔離・幽閉は約2年間続きました。
信長の後に覇権を握った秀吉の取り成しにより、忠興はガラシャを細川家の大阪屋敷に戻し、監視をします。この監視は外出が勿論出来ない、屋敷内の一室からも出られないといったものでした。このような状況の中、忠興との生活ではこの後も次男・興秋(おきあき)、三男(後の嫡男)・忠利(ただとし)が生まれています。また精神的にはこれまで禅宗を信仰していましたが、忠興が高山右近(たかやまうこん)から聞いたカトリックの話しと教えに心魅かれていきます。忠興が九州征伐で不在時に隠れて教会へ外出します。教会では復活祭の説教が行われていて、その際ガラシャは日本人修道士に様々な質問をします。その修道士は後に「これほど明晰かつ果敢な判断ができる日本の女性と話したことはなかった」と述べています。二年間の幽閉生活はガラシャに精神的な強さを生んでいたように思えます。外出の見込みが全くないので、ガラシャは洗礼を受けられないままでしたが、侍女を通じて教会とのやり取りや、教会から送られた書物を読むことで信仰に励んでいました。この期間に侍女達に洗礼を受けさせています。おそらく忠興はこの時期のガラシャのこういった行動は全て認識していたと私は思っています。それを見て見ぬふりをしていたのであろうと思います。忠興自身は洗礼を受けていませんが、当時の第1級の文化教養人であり、様々な人との交流もある人物であったので、キリスト教にも理解があり、何よりもキリスト教を紹介したのが忠興自身であったので。
しかし、秀吉が九州征伐後に「バテレン追放令」を発すると事態はまた急変します。宣教師が海外に追放される前に、宣教師の計らいにより洗礼を受けた侍女から洗礼を受けて「ガラシャ(ラテン語で恩寵・神の恵みの意)」という洗礼名を受けました。追放令が出ているので、九州から戻ってきた忠興は受洗を怒り、棄教させようとしましたが、ガラシャは頑としてきかず、ついに忠興も黙認したと言われています。ガラシャが精神的に満たされていた時間は意外に短く、慶長3(1598)年に稀代の英雄・秀吉が亡くなるとまた混乱の時代になります。新たな天下人を目指す徳川家康と豊臣政権の維持を目指す石田三成の対立です。忠興は朝鮮の役での三成や五奉行との確執もあり家康側に立ちます。ここでガラシャの人生を変えた2つ目の事件が起きます。「関ヶ原の戦い」です。厳密な言い方をすると関ヶ原の戦いの前哨戦になります。
どの武将も出陣の際には「もし自分の不在の折、妻の名誉に危険が生じたならば、日本の習慣に従って、まず妻を殺し、全員切腹して、我が妻とともに死ぬように」と屋敷を守る家臣たちに命じるのが常であり、忠興も上杉征伐の出陣時にも同じように命じていました。三成は各家の正室(奥方)を人質に取ることで、その武将を味方に引き入れて後の関ヶ原の戦いを上手く進めていきたいという考えがあり、各家の大阪屋敷を武力を持って抑えようとしますが、ガラシャはその人質になることを拒否をします。ガラシャは忠興の指示通りに死を覚悟します。しかしキリスト教において自殺は禁じられていたため、家老の小笠原秀清(小斎)がガラシャを部屋の外から槍で胸を突かせたと言われています。ガラシャの遺体が残らぬように屋敷に爆薬を仕掛け火を点けて秀清自身も自らも自刃しました。
ガラシャの辞世の句として伝えられている歌が【散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ】というものがあります。この歌を聞いて私が感じることは花も人も散るときや死ぬときがあって、そのタイミングを外してしまうと美しくない、人ならば生き恥をさらすことになってしまう。「恥」を最も嫌う武士やその奥方にとっては耐えられない屈辱なのだろうと考えてしまいますね。
このガラシャの自分自身を犠牲にした行動は三成にとっては予想外のことで、その影響を考え、この後人質を取ることをやめています。関ヶ原の戦いのその後については、今回述べませんが、細川家は肥後国隈本(熊本)の領主となり現代まで続いています。因みに第79代内閣総理大臣・細川護熙(ほそかわもりひろ)氏は肥後細川家・第18代当主でありますが、残念ながらガラシャの血筋(子孫)ではないのですが、長男(後に廃嫡された)・忠隆(ただたか)の子孫は現在も残っていまして政治評論家の故人・細川隆一郎氏は子孫にあたります。
ガラシャの死から100年後の1698年、新作戯曲「気丈な貴婦人」がオーストリア・ハプスブルグ家の宮殿内のホールでオペラとして上演されました。この戯曲のモデルは、イエズス会宣教師たちが伝えたガラシャでした。ガラシャの運命はハプスブルグ家の女性たちに共感を持って迎えられ、「貴婦人の鑑(かがみ)」と呼ばれて、1789年のフランス革命で有名なマリー・アントワネットにも影響を与えたと言われています。