今回は、4月に起こった歴史的事件の中から慶応4(1868)年4月21日に完了した「江戸城無血開城」についてお伝えしていきたいと思います。この江戸城無血開城については幕末を題材とした歴史ドラマや映画、小説には必ずと言って良いほど一場面として出てくるのは皆さんもご存知かと思います。新政府(倒幕)側代表:西郷隆盛と幕府側代表:勝海舟(かつかいしゅう)が二人のみで会談している映像などがその場面になります。しかし、この状況になるまでには様々な事柄が両陣営で繰り広げられていたことは余り知られていないではないでしょうか。今回はこの辺りをお伝えできればと思っています。
先ずは江戸城開城までの簡単な両陣営の流れからお伝えしていきます。当時の幕府側は日米和親条約締結以降、様々な欧米列強と条約を締結して、約260年の鎖国政策をやめて開国路線を進めていました。一方、新政府側の中心である薩摩藩や長州藩は「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」を標榜し、欧米列強と単独で戦争を行っていました。(「薩英戦争」「下関戦争」と呼ばれるものです。)この結果この二つの藩は「攘夷」が不可能であることを実感して幕府を倒し、天皇を中心とした新たな政府を作っていく「倒幕」運動を積極的に進めていくようになっていました。
時の将軍、第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が慶応3(1867)年「大政奉還」で政権を朝廷に返上したことにより、事態がスピードを増して進んでいきます。この状況下で、幕府側の考えとしては徳川家や幕府で政権を運営していた譜代大名を差し置いて国政を行うことは薩長等では無理であると考えていて、力のある藩が協力して国政を担っていく「諸侯会議(しょこうかいぎ)」が作られるだろうと考えていました。これは大半の藩や諸侯の考えでもありました。しかし、西郷や大久保利通や岩倉具視は「倒幕」を推し進めていきます。この三名が主導して「王政復古の大号令」と「小御所会議」で慶喜の「辞官納地(官職と領地返上)」を勝手に決め、実施してしまいます。大政奉還以降の薩長、特に薩摩は何とかして倒幕の大義名分を作ろうと様々な工作を行います。江戸市中警備の任にあった庄内藩(出羽国・山形県鶴岡市)がこの行動に怒り、薩摩藩江戸藩邸を焼き討ちしてしまいます。この事件により幕府側の強硬派も「薩摩討つべし」と大坂城に集結し、鳥羽伏見の戦いが起こります。結果は皆さんもご存じの通り、新政府側の近代化された武器により幕府側の完敗で終わりました。その最中に慶喜以下、恭順派は大阪を脱出し江戸に戻ってきます。江戸に戻った慶喜は恭順を示すため、上野寛永寺に移ってその後謹慎生活を送っています。
幕府側の強硬派として会津藩、桑名藩などの藩や後に蝦夷(北海道)の五稜郭に立て籠もる幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)、勘定奉行・小栗忠順(おぐいただまさ・通称、小栗上野介)、更には新選組などが有名ですが、幕府首脳の考え方は基本的には恭順でした。一方薩長も基本はその恭順を受け入れる方向でしたが、薩摩の大久保や西郷、公家の岩倉が急先鋒として武力で幕府を倒さなければ新しい世は作れないという考え方でした。江戸総攻めの参謀が西郷であったので、総攻めは基本路線として実行段階まで迫っていました。
しかし、ギリギリのところで総攻めは中止となります。その要因として幾つかのものが挙げられます。
一つ目は、当時の大奥には第13代将軍正室・天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ・薩摩藩出身)と第14代将軍正室・静寛院和宮(せいかんいんかずのみや・明治天皇の父・孝明天皇の妹)が居ました。この二人は如何に徳川家を存続させるか、江戸の町や住民を守るかを考え、様々な形で動いていました。天璋院は実家の薩摩や嫁入り前に養女として一時期暮らした近衛家などに、静寛院は朝廷にそれぞれ何度も働きかけをしていたと言われています。ドラマや映画などでは天璋院から西郷に宛てた書状に養父・島津斉彬の書状を付けて送ったのが、西郷の心を揺さぶったというエピソードが良く使われています。
二つ目は将軍慶喜が水戸藩出身であったことも影響していると思われます。歴史にかなり詳しい方であれば聞いたことがあるかもしれないですが、水戸藩は黄門様で有名な光圀(みつくに)の時代から「勤皇(きんのう)藩」と呼ばれ、御三家と言われながら他の尾張藩や紀伊藩とは異なり、江戸に藩主は常時在府しなければならなかったり、領土の石高も尾張・紀伊の半分程度など幾つかの制約が設けられていました。最大のものは「水戸から将軍は出さない」という不文律がありました。さらに大奥には「公家や皇族出身の将軍が出たら幕府は滅ぶ」と言われていて、幕府設立当初から正室を京都から迎えてはいますが、この正室からは一人として男子が成長していないこと、仮に正室が妊娠・出産をしても闇に葬られていました。しかし、慶喜は水戸藩主斉昭(なりあき)の正室(皇族出身)から生まれましたし、将軍就任前は一橋家の当主ではありましたが、水戸藩出身者でした。勤皇藩で育った慶喜が天皇に弓引くようなことは基本的にできなかったのではないかと思われます。
三つ目は欧米列強の力が働いていたと思われます。この当時幕府及び薩長にとってイギリスやフランスの力は絶大なものでした。フランスは公使レオン・ロッシュが幕府を積極的に支援したので、幕府はフランス式の軍隊となっていました。一方イギリスは公使ハリー・パークスが薩長を支援していました。ただ欧米列強は今後の日本を考え、武力による政権交代が日本の近代化を遅らせることを認識していたので、裏でフランスとイギリスは繋がっていたと考えられます。その証拠に薩長側のイギリス(パークス)が強く総攻めに反対していたと言われています。ナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂したという怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、総攻め中止の外圧になったと言われています。
これら以外にも様々な要因で江戸城総攻めは中止されましたが、江戸城無血開城の意義は大きかったと思えます。当時人口100万人を超える世界最大規模の都市であった江戸とその住民を戦火に巻き込まずにすんだことが最大の成果であったと思われます。また、それまでの日本の支配者であった徳川宗家が新時代の支配者たるべき新政府に対して完全降伏するという象徴的な事件であり、日本統治の正統性が徳川幕府から天皇を中心とする朝廷に移ったことを意味しました。江戸時代に事実上日本の首都機能を担った江戸という都市基盤がほぼ無傷で新政府の傘下に接収されたことは、新国家の建設に向けて邁進しつつあった新政府にとって大きなメリットになったと言えたはずです。
ただ、その後も従来の幕府の統治機構である幕藩体制が存続したことは強力な政府の下に富国強兵を図り、欧米列強に対抗しうる中央集権的な国家を形成しようとしている新政府にとっては、旧弊を温存することにもなりうる諸刃の剣でありました。結局のところ近代国家を建設するには各地を支配する藩(大名)の解体が不可避であり、一旦藩領と領民を天皇に返還する手続きをとった後(版籍奉還)、さらに最終的には幕藩体制自体を完全解体する(廃藩置県)というもう一つの革命を必要としていたのでした。
江戸の町(東京)は何度かの大規模な都市再開発が行われています。そもそも徳川家康が江戸に入った際は小さな漁村で、以前からあった江戸城は城とは呼べない館(やかた)程度のものであったと言われています。それを家康・秀忠・家光の三代掛けて完成させたのが江戸城でした。当然城下町も急速に開発されました。ただ当時の江戸は沼地や谷が多かったので埋め立て、地盤整理がほとんどでした。現在も東京には地名で残っている渋谷・四谷・千駄ヶ谷といったその証左になります。つまり一度目は再開発というよりは開発にあたりますね。
では再開発の一度目はというと大火によって行われます。「火事と喧嘩は江戸の華」という言葉があったのですが、明暦の大火(通称・振袖火事)という明暦3(1657)年に起こったもので北西風によって江戸城天守閣、江戸の大半が延焼したもので10万人以上が亡くなったと言われています。因みにこの後、江戸城天守閣は現在も再建されていません。この火事によって江戸の都市計画や防災対策が施され江戸の町は作り変えられました。
二度目は関東大震災であると思われます。首都直下の大地震によって幕府崩壊以降の政府によって近代化されてきた首都東京が一瞬にして瓦礫の町になってしまいましたが、内務大臣・後藤新平を中心に今までの江戸の町を近代化したという東京から本当の意味での近代国家の首都として生まれ変わりました。これは太平洋戦争で東京が大空襲を受けた後に再建された東京も踏襲した街づくりであったと思われます。 現在東京は様々な場所で再開発事業が大規模に行われています。江戸の頃から比べると東京は何度となく拡張を続けて広がっています。これからも更なる拡張を続けていくのではないかと思われます。今後行われる開発が世界都市東京の更なる発展に繋がることを願っています。