ペストイメージ
コロナ、パンデミックで改めて世界で読まれたベストセラーは、80年近く前に出版された、アルベール・カミュの「ペスト」である。中世に大流行して、世界の人類の2割が死亡したといわれるペスト別名「黒死病」はヨーロッパで猛威を振るい、イングランドやイタリアでは人口の8割が亡くなり、死滅した町や村があるほどであった。当時の貧弱な医療から致死率は5割で19世紀末に日本の細菌学の父、北里柴三郎がペスト菌を発見し、その対策が出てくるまで、何度もヨーロッパで流行を繰り返した。

アルベール・カミュは人間性を損なう不条理を描き続けた20世紀を代表する作家である。アルジェリアのオラン市で、原因不明の熱病が続出して、外部と遮断された孤立状態の街で市民が病気と闘う姿を年を追って淡々と描いていく。集団を突然おそった悲劇が人間性を蝕む「不条理」と直面した時に反応する人間の本質が、過ぎ去ったばかりのヨーロッパのナチスとの戦いの体験を寓意的に描き、世界の共感を呼んだ。

新型コロナの感染防止策として全国の学校が突然休校に追い込まれ、全ての施設が封鎖され、観光、飲食、イベント、遊戯施設がたちまち成り立たなくなり、大量に放り出された非正規雇用者達や、正規社員も次々と自宅待機を余儀なくされる急激な変化は不条理そのものであった。小説「ペスト」の情況が、現代社会に、世界に突然出現したのである。

安易な期待と、楽観的な予測は木っ端微塵に吹き飛ばされたが、それによる過剰反応はより強く増幅された。適切に警戒して、不便な状況を受け入れ、冷静に行動する、社会や国民に求められたのはそういう市民の自律的行動であった。

しかし、新型コロナウイルスに感染しているのは人間だけではなく、社会もまた大きく感染し、文化文明も被害を受けている。パンデミックよりインフォデミック(情報の感染)のほうがはるかに怖く、質が悪いことも鮮明になった。感染者やその家族、医療従事者やその家族に対する非難や差別、誹謗中傷がエスカレートしている。自分は感染しないという身勝手な言動も広がりを見せた。感染拡大は小説「ペスト」でまさしく描かれた、心の荒廃を蔓延させた。

2018年に公開された映画「日日是好日」は、樹木希林さんのほとんど遺作となった映画であるが、樹木希林さんが演じるお茶の先生がこんなことを言うシーンがある。

私、最近思うんですよ。こうして毎年同じことが出来ることが本当の幸せなんだって」

樹木希林さんがつぶやくからこそ一層、身に染みてくる言葉であったが、昨日と同じことが出来る幸せが、今は失われている。毎年の恒例行事がすべて中止され、世界中のスポーツイベントが開催できなくなり、東北の三大祭りや、阿波踊り、よさこい祭り、花火大会が次々と消えていく。高校野球の甲子園も、来年の五輪も赤信号である。人々の行動が限りなく制限されていく。

人間は本来、集まって交流することで様々な経験と思慮を学んでいく。人と会っておしゃべりすることで、気持ちや、知識が更新されていく。何かと遭遇することで、新しい生き方が浮かんでくる。特に意識してなくても、そういう社会性が人間を育てる。社会性を帯びていくことが人間の特性である。 ウイルスに侵食されたのは、我々の身体ではなく、我々の人間性であったのかもしれない。

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飯塚良治 (いいづかりょうじ)

株式会社アセットリード取締役会長。 オリックス信託銀行(現オリックス銀行)元常務。投資用不動産ローンのパイオニア。現在、数社のコンサルタント顧問と社員のビジネス教育・教養セミナー講師として活躍中。