樋口一葉
皆さん、こんにちは。今年の夏休みやお盆は「新型コロナウィルス」感染を抑える為にご実家への帰省や家族旅行を控えた方も多かったと思います。4月の「緊急事態宣言」から日々の生活を含めたあらゆる活動が制限されていますが、この状況が飛躍的に改善、変化したりすることが余り考えられないので、こんな時こそ時々の状況を客観的に楽しめたりするように出来たら良いなと思っています。皆さんも個々の楽しみ方で内向きになることなく、快適に過ごせるようにしていってください。

さて今回は、以前このコラムで次回の大河ドラマの主人公であり、次の1万円札(日本銀行券)のモデルとなる、埼玉県出身で近代実業界を代表する「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」についてお伝えしたかと思います。今回はそのお札繋がりの人物について述べていきたいと考えています。

現在の5千円札の「樋口一葉(ひぐちいちよう)」についてです。皆さんがこの人の名前を聞いて思い浮かぶのは『たけくらべ』『にごりえ』といった作品ではないでしょうか。実は一葉の作家活動は2年余りしかなく、それらの作品を発表した期間は【奇跡の14か月】と呼ばれています。

一葉は1872(明治5)年、現在の東京都千代田区内幸町に東京府の役人(官吏)の家の二男三女の次女として生まれました。幼児期から利発で物覚えが良かったと言われていて、幼年時代は同年代の子供の遊びに興味がなく、読書を好み滝沢馬琴(たきざわばきん)の「南総里見八犬伝」を3日で読破したと伝わっています。ただこの当時の女性には学業は不要であるといった考えがあった為に、首席で卒業してもその後の高等教育は受けられませんでした。

1896年に『たけくらべ』が発表されると森鴎外(もりおうがい)や幸田露伴(こうだろはん)、島崎藤村(しまざきとうそん)といった文筆家から一葉の才能が高く評価されましたが、その頃には当時、治療法がなかった肺結核を一葉は患っていました。そんな一葉を見て、当時陸軍軍医総監であった鴎外が、当代随一といわれる医師を頼み往診に向かわせましたが、恢復が絶望的との診断を受けていました。皮肉にも『たけくらべ』を発表した年の11月に自宅にて24歳6カ月で一葉は亡くなりました。

一葉の家はとても貧しく、他人に来てもらうだけの葬儀を営むことが出来ないという理由で、築地本願寺で質素に行われました。一葉の才能を高く評価し、その早世を惜しんだ鴎外は<陸軍軍医総監・森林太郎>として正装の上、騎馬にて棺に従う参列を打診しましたが、遺族に丁重に断られていました。

一葉は近代以降では最初の職業女流作家であり、24年間の生涯の中で特に亡くなる間際の1年2カ月の期間に日本の近代文学史に残る作品を残しました。この期間でこれだけの作品を現代にも残るものを出した才能だけでなく、余りにも呆気なく亡くなってしまった点が心に響きます。話しは少し変わりますが、「桜・紅葉・花火・富士山」の4つのことを嫌いという日本人はいないのではないかと私は思っています。小説やテレビドラマなどで人間の一生(生涯)が花火に例えられる時がありますが、まさにほんの一瞬に夜空いっぱいに華やかに、煌びやかに咲きほこり、そして消えていく花火が一葉の一生のように私は感じましたし、日本人は心のどこかで花火のような人生を送りたいと憧れているので、その儚さに愛着を感じるのではないかと思っています。

維新後、明治政府は四民平等の方針の元、武士(士族)階級を解体していきましたので、多くの士族が経済的に困窮し、没落していきました。そんな中で自らが士族出身であるという誇りを終生持ち続けたことで、それがゆえに生計を立てにくかったのではないかと思います。この当時の武士(士族)を表す言葉として「武士の商法」というものがあります。意味は「商売のやり方が下手であることのたとえ、維新後の武士が商売をしても威張ってばかりで失敗することが多かったこと」。こういった状況が不平士族の反乱という形で一連の内乱が頻発しましたが、最終的には西南戦争という形でその反乱も終息し、士族自体が消滅というか生き辛い世の中、生き方を変えなければいけない世の中になっていきました。

一葉の文学的素養は祖父や父親にあったと言われていました。元々、樋口家は甲斐国山梨郡(山梨県甲州市)の百姓でしたが、一葉の祖父は学問を好み、俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、更に父親も農業よりも学問を好み、駆け落ち同然で江戸に出てきて、武士(旗本)株を買い、運よく幕府直参(旗本)になり、維新後に下級役人として士族の身分を得ていました。因みに漱石と一葉は意外なところで繋がっていました。一葉の父が東京府の役人(官吏)を務めていた時の上司が漱石の父でした。人によって「明治の文豪」と呼ばれる人の選択は異なるようですが、必ず鴎外、漱石、露伴は入ってくると私は考えますが、その3人と直接的に繋がりがあり、更にその才能を高く評価された人は一葉だけであるように思います。況してや若くして亡くなってしまったのですから、尚更であるように思いますね。

一葉のように溢れる才能がありながら、若くして病気などで亡くなってしまった方や生活等が厳しくて自殺してしまった方が、この当時とても多くいました。一例を挙げると作曲家・滝廉太郎(たきれんたろう【病死・肺結核 23歳】)、詩人・石川啄木(いしかわたくぼく【病死・肺結核 26歳】)、金子みすゞ(かねこみすず【服毒自殺 26歳】)、中原中也(なかはらちゅうや【病死・急性脳膜炎 30歳】)、作家・小林多喜二(こばやしたきじ【獄中死 29歳】)などが有名です。皆さんも聞いたことがある方々ではないでしょうか。実は、今回反省をしていまして、一葉に関する文章を書かせていただいているにもかかわらず、東京都台東区にある「一葉記念館」に私は行ったことがなかったので、このご時世ではありますが、時間が出来たら行って見ようと思いました。私は記念館などで作品に直接触れたり、見たりするとその当時の雰囲気や作品の生々しさなどを感じることが出来るので、ワクワクしたりします。