皆さん、こんにちは。7月の下旬から7月初めの涼しさが嘘のような暑い日が続き、7月最終日の31日には日本全国で梅雨が明けましたね。予報用語に「熱帯夜」「夏日」「真夏日」「猛暑日」というものがあるのは皆さんもご存じかと思います。35度以上の日は「猛暑日」にあたりますが、かつて最高気温が35度以上の日を「酷暑日」とマスコミが表現し、ある程度浸透したのですが、35度以上になる日が増加したことから気象庁が2007年4月1日に予報用語を改正し、35度以上の日を「猛暑日」としました。その為、「酷暑日」は「猛暑日」の俗称という位置づけになりました。因みに日本語には「とても暑いこと」を表す言葉として他にも「激暑(劇暑)」「炎暑」がありますが、これらには正式な用語ではないので「日」は付けられないらしいです。

さて、今回から不定期に私が独断と偏見で選んだ各都道府県の偉人について述べていきたいと考えています。皆さんの出身地の偉人についてもいつかお伝えすることが出来るかと思いますので、ご期待ください。

今回は、今年の4月9日に発表されました20年ぶりに刷新される日本銀行券に使用される肖像画に選ばれた武蔵国榛沢郡血洗島村(埼玉県深谷市血洗島)出身の人物について述べていきたいと考えています。この出身地を聞けば、埼玉県出身の方ならばよくご存じの方かと思います。今回取り上げるのは、【日本資本主義の父】と呼ばれた「渋沢栄一(しぶさわえいいち)」です。現在に残る渋沢の功績としては、国立第一銀行(現:第一勧業銀行を経てみずほ銀行)、東京瓦斯、東京海上火災保険(現:東京海上日動火災保険)、王子製紙(現:王子製紙・日本製紙)、秩父セメント(現:太平洋セメント)、帝国ホテル、秩父鉄道、東京証券取引所、麒麟麦酒(現:キリンホールディングス)、サッポロビール(現:サッポロホールディングス)、東洋紡績(現:東洋紡)など挙げたらキリが無いほど現在、大手一流企業と呼ばれる多種多様な会社の設立に関わっていて、その数500社以上と言われています。

渋沢は天保11(1840)年、藍玉の製造販売と養蚕を兼営し、米や麦、野菜の生産も手掛ける豪農・渋沢家の長男として生まれました。一般的な農家とは異なり、原料の買い入れと販売を行うため、常に算盤をはじく商業的な才覚が求められる家でありました。渋沢も幼い時から藍葉の仕入れを行うようになり、この経験が後にヨーロッパを訪問した際に現地の経済システムを吸収しやすい素地を作りだし、現実的な合理主義思想に繋がったと言われています。

渋沢もこの当時の若者と同様に、学問と剣術修業のために江戸へ出てきます。その時に勤皇の志士たちと交流を持つようになり、尊王攘夷思想に目覚め、高崎城を乗っ取り武器を奪い横浜を焼き討ちにした後に長州と連携して幕府を倒すという計画を立てるといったかなり急進的な志士になりますが、これは親戚の説得により中止となりました。

その後、京都へも行くのですが、勤皇派の長州藩が佐幕派の会津藩・薩摩藩に負けた八月十八日の政変の直後であったために勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学中に交友のあった一橋家家臣・平岡円四郎(ひらおかえんしろう)の推挙により、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)に仕えるようになります。渋沢にとってその後の人生に重要な人物との出会いがあるのですが、その一人がこの慶喜との出会いであったと思います。渋沢は豪農出身ではありますが、慶喜が第15代将軍になったことで幕臣となります。その後、パリで開催される万国博覧会(1867年)に将軍名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武(とくがわあきたけ、後の水戸藩主)の随員として、フランスへ渡航します。パリ万国博覧会の視察の他、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に従い、各地の先進的な産業・軍備・社会を見て感銘を受け、これが後の渋沢の事業に繋がっていったと思います。

このヨーロッパでの経験が実践的に役立つのは、大政奉還後に出会った人物の後押しによるものと考えられます。その人物とは後に内閣総理大臣となる大隈重信(おおくましげのぶ、早稲田大学創立者)と鹿鳴館政策で有名な井上馨(いのうえかおる)です。大隈に説得されて大蔵省に入省し、先程お伝えした国立第一銀行を設立させ、さらには現在、宮城県仙台市に本店を置く東北六県では最大手となる七十七銀行の設立にも尽力し、数々の地方銀行設立にも力を注いでいきました。これは一橋家の家臣となった際に、領内を巡回し地域の活性化には地域経済の産業が必要であり、その産業を支えることが必須であると感じたことが影響していると思います。

一方で渋沢は実業界の中では最も社会貢献活動に熱心で、当時の東京市からの要請で養育院(現:東京都健康長寿医療センター)の院長を務めたほか、東京慈恵会、日本赤十字社の設立にも携わり、財団法人聖路加国際病院の院長も歴任しました。関東大震災の復興のために大震災善後会副会長となり、当時の内務大臣・後藤新平(ごとうしんぺい 満州鉄道総裁、東京市長)と協力して東京市(帝都)の復興の為、寄付金集めに奔走しました。また当時、実学教育に関する意識が薄く、実学教育が行われていなかったが、渋沢は教育にも力を入れ、初代文部大臣・森有礼(もりありのり)と共に商法講習所(現:一橋大学)、大倉喜八郎(おおくらきはちろう)と大倉商業学校(現:東京経済大学)の設立に協力しただけでなく、二松学舎(現:二松学舎大学)の第三代舎長に就任したり、国士舘大学、同志社大学、日本女子大学、東京女学館などの設立に尽力したり、寄付金集めの取り纏めなどを行いました。

また民間外交の先駆者としての顔も持ち、日本国際児童親善会を設立し、アメリカの人形と日本人形を交換し交流を深めたり、中国で起こった水害のために中華民国水災同情会会長として義援金を募るなど活動を行い、1926年と1927年のノーベル平和賞候補にもなっています。このような渋沢ですから、井上に組閣の大命が下った時には真っ先に大蔵大臣への入閣を求められていましたが、辞退しています。断られた井上は組閣に自信がないとして直ちに大命を拝辞、井上内閣は幻に終わっています。私はこの井上の渋沢に対する全幅の信頼もある意味で凄いなと感じました。

最近、渋沢がクローズアップされることがあったのは、この新札の肖像画に選ばれただけではなかったのですが、皆さんはご記憶されていますか。それは昨年プロ野球ドラフト会議で中日ドラゴンズに一位指名され、入団した根尾選手の愛読書に渋沢著『論語と算盤』があったからです。渋沢は幼少期より『論語』を読み、それを拠り所として【倫理と利益の両立】を掲げ、経済を発展させ利益を独占するのではなく、国全体を豊かにするために富は全体で共有するものとして社会に還元することを説くと同時に自身にも心掛けていました。『論語と算盤』にはその理念が端的に次のように述べられています。【富をなす根源は何かといえば、仁義道徳。正しい道理の富でなければ、その富は完全に永続することはできぬ】と述べられています。最近、子供への道徳の必要性だけでなく、社会人への必要性も叫ばれています。様々な不祥事が相次ぐ中で社員教育のおける「道徳」「倫理」の必要性が再確認されているのは、何となく現代に渋沢の一生や考え方、行動が改めて見直され、学ぶべき指針となっているように思えますし、世の中に「道徳」「倫理」の精神が薄れたり、無くなってきているために世の中が渋沢の精神を欲していたのかもしれないですね。

最後に新元号が「令和」に決まって、その典拠になった『万葉集』が脚光を浴びていますが、東京都狛江市に『万葉集』の東歌(あづまうた)を刻んだ歌碑が伝わっていました。そしてこの歌碑を再建するのに援助したのが渋沢です。 狛江市の万葉歌碑は【多摩川に さらす手作り さらさらに 何そこの児の ここだ愛しき】という東歌を刻んだもので、江戸時代後期(文化2年・1805年)にこの歌が詠まれた場所が狛江の多摩川沿いだとして建てられました。この時、歌を書いたのが寛政の改革で有名な松平定信(まつだいらさだのぶ)でした。しかし歌碑は数年後(文政12年・1829年)の洪水で流されてしまい、以後も狛江の人々はその流失を惜しみ、歌碑の捜索を続けていました。流失から90年近く経った大正時代になると、狛江の有志らは歌碑の再建のため「玉川史蹟猶興会(たまがわしせきゆうこうかい)」を設立し、渋沢に協力を仰ぎました。渋沢は松平定信を尊敬していたことなどから、会の顧問を引き受け、狛江の人々の思いを汲み、講演会の演壇に立ったり、多額の寄付をしました。寄付金は財界の大物からも寄せられましたが、これは渋沢のつてによるものでした。そして大正13年(1924年)4月13日、渋沢らを招き、万葉歌碑が建つ傍らの庭園「玉翠園」で除幕式が催されました。万葉歌碑の正面には松平定信の書が模刻され、背面には渋沢による「碑陰記」などが刻まれています。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。