新型コロナの流行の一定程度の収束により、政府が屋外でのまばらなところではマスクを外してもいいという、メッセージが伝えられた。筆者はよく朝や晩に、大型犬の散歩を日課としているので、散歩中は、マスクを早速外してみたが、行き交うペットの散歩人やウォーキング、ランニング、年配者の散歩人も驚くほど誰もマスクを外さないのである。そして相変わらず、ノーマスクの筆者に鋭い視線を送ってくる。

そういえば、厚生労働省は2年前から熱中症予防対策として、屋外では他人と2メートル以上の距離があればマスクはすべきではないとの勧告を出していた。

混んだところでなければ歩行者の多くはマスクをしていないはずだが、実際そういう人に会うのは皆無であった。

欧米では法律でノーマスク禁止令が出ても、ほとんどマスクをしないというこの状態と、日本では何が根本的に違うのか、改めて国民性の違いについて思案を巡らすのである。かつて副総理の政治家がマスクをほぼ全員がする我が国の国民気質を水準が高いと自画自賛していたが、そういう我田引水的な問題ではないであろう。もう少し客観的で多様な問題意識があっていいのではないか。

確かに欧米に比べればコロナ騒動の中で日本人のマスクへの抵抗感は少なかったことが、コロナ被害が比較的に少なく抑えられた一つのファクターになったことは間違いないと思えるのであるが、裏を返せば、日本特有の文化的な要因が色濃く影響していたとも言える。個人的な見解の範囲であるが、日本人は家族や知人、会社、学校、隣近所といった身近な人々で構成されているいわゆる「村社会」=「世間」しか意識せずに生きていることが大きいと思えるのである。

例えば欧米を旅行して気づかされることであるが、エレベーターに乗って欧米人の多くは知らない人が乗ってくると、微笑んで「ハロー」と挨拶してくる。でも日本人は目も合わさず黙り込んで階数の数字をにらんでいる。

日本人は普段は他人の接することのない人とのコミュニケーションを本来苦手である。勿論商売などがからめば別であるが、利害関係のない赤の他人とはなるべく知らんふりをしたいのである。一方では身近な人とは親しく接したい,好意を持たれて仲良くされたいという願望は強いのであるが、そうでない関係の薄い人との接触はなるべく避けたいのである。

コロナ禍の中でのマスクはこういう心象の中では好都合なグッズであった。コロナ禍で義務となったマスク着用はこうした「知らない人」とソフトにバリアを築けることで「安心感」を持ったといえる。

それは二重の意味で知らない人からはウイルスは貰いたくないという大義名分もあった。

ただでさえ精神的に追い詰められる、コロナ感染爆発の時に、マスクはちょっと違った精神安定剤の役割を果たしたのである。

知らない人との関係は持ち込まれず、ますます身近な人とでつくる「世間」の関係だけが強まっていく。

そこでは「お仲間」と違うことはしてはいけない、村八分にされるという「同調圧力」の空気に支配されていく。

コロナ禍で営業する飲食店をネットでバッシングして、マスクを着けない人を非難する自粛警察が登場し、この「空気」は、はみ出すものに狂暴となる。それを怖れて、誰も逆らわない空気の流れが一方向に固定化されるのである。

社会評論の知の巨人、山本七平はこの「空気」という得体の知れない日本の国民気質を、戦前の日本を破滅に追いやった『元凶』と指摘したが。「空気」は令和の今でも法令以上の力を持って、この国を支配していると思うのである。

少し考え過ぎであろうか。

もちろん、マスク着用は生活上の意外な効果をもたらした、女性はメイクを気にせず、男はたまには無精ひげを気にせず,相手に素顔をさらすことなく、ぼんやりとした匿名性を獲得できた。しかも鼻と口が見えなくてほとんどの人のお顔は不快感なくきれいである。

日本人の所作の作法はすべからく口元を隠す、手で覆う、いっぽう「目は口ほどにものを言う」、という文化である。欧米は口元の話す表情で相手の真意をみるという文化だそうでマスクには元から抵抗があるそうであるとのこと。

そういう観点からしても日本人のマスク好きはコロナ後でもますます手放せない人が多くなることだけは確かである。マスク依存症という新しい病名の誕生である。

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飯塚良治 (いいづかりょうじ)

株式会社アセットリード取締役会長。 オリックス信託銀行(現オリックス銀行)元常務。投資用不動産ローンのパイオニア。現在、数社のコンサルタント顧問と社員のビジネス教育・教養セミナー講師として活躍中。