皆さん、こんにちは。前回のコラムから少し間が空いてしまい、その間に大河ドラマの新年から新しいものが始まっていますね。季節も暦の上ではもう春なのですが、先日関東でも数年ぶりに積雪となった為、鉄道などの公共交通機関は大きな混乱はなかったのですが、首都高が数日通行止めになっていましたね。首都高は路側帯が無いので除雪した雪を運ばないといけないので、仕方ないのかも知れませんね。首都高を使って居る方々は迂回したり、一般道でも移動への変更で大変苦労されたと思います。その便利さに頼り切っているのでこういう時に弱いですよね。

さて、今回からは新しく今年始まった大河ドラマ「光る君へ」の中から皆さんにお伝えしたいと思ったことをつらつらとお伝えできたらと考えています。今回は「藤原氏」についてお伝え出来たらと思っています。しかし藤原氏の全てをお伝えすることは無理ですので、幾つかに焦点を絞っていきますね。皆さんが持っている藤原氏のイメージは歴史の授業で習った藤原道長(ふじわらのみちなが、以下「道長」)がその象徴であるかと思います。藤原氏と言えば道長と言われるのは道長の時代が最盛期だったからです。しかし最盛期を生み出すにはその祖先たちの努力があったのも確かなことです。道長一人でその栄華を作り出した訳ではなく、また、道長自身が物凄い政治家であったのかというと私は疑問に思っています。それについては後程お伝えしたいと思います。

まず初めに藤原氏が政治の世界で台頭したのは、中臣鎌足(なかとみのかまたり 後の藤原鎌足)の子である藤原不比等(ふじわらのふひと)の娘である光明子(こうみょうし)が聖武(しょうむ)天皇の皇后になったことと、大宝律令(たいほうりつりょう)の編纂に中心的な役割を果たすなど不比等自身が優秀な政治家であったことが挙げられます。実は光明子の前に不比等は自身のもう一人の娘である長女・宮子を文武(もんむ)天皇の夫人として、聖武天皇の母親となっています。

この不比等の功績や宮子、光明子の後ろ盾を引き継ぎ、発展させたのが息子達でした。武智麻呂(むちまろ 南家)、房前(ふささき 北家)、宇合(うまかい 式家)、麻呂(まろ 京家)の4兄弟です。このことによって藤原氏が幾つかの家に分家し、その力が分散していくようになりました。ただ最初は兄弟や従兄弟という関係性であったので、兄弟は協力し、政権運営を数年担いますが、4兄弟全てが天然痘で亡くなってしまいます。このため藤原氏全体の勢力は一旦衰えます。しかし武智麻呂の子、仲麻呂(なかまろ)が光明皇后の後ろ盾を得て、勢力を回復します。ただ仲麻呂も親や自分の代で行ってきた多氏排斥(長屋王の変、橘諸兄との対立、橘奈良麻呂の乱)と同様に自身も道鏡との対立の末、乱(藤原仲麻呂の乱)を起こして滅亡してしまいます。まだこの当時は政権運営が不安定で藤原氏にとって対抗できる他の氏族が存在していたこともあり、政権を取った藤原氏全体の眼は他氏に向けられていました。

ここから少しの間、藤原氏は政権の首班ではない時期がありますが、一時期ですが平城(へいぜい)天皇の愛人になったと言われている式家の薬子(くすこ)が女性ですが政権を担っていましたが、薬子の変で失脚してしまいます。南家や式家が没落していき、北家の冬嗣(ふゆつぐ)が嵯峨天皇の秘書機関として蔵人所が設置されるとその初代蔵人頭(くろうどのとう)となります。この蔵人頭はまさに天皇の最側近であって、その政権に及ぼす力は絶大でした。これによって冬嗣は自身の次男である良房(よしふさ)に嵯峨天皇の娘、自身の娘を嵯峨天皇の皇子で後の仁明天皇へ入内されています。嵯峨天皇家と冬嗣の家の二重の婚姻は天皇家の外戚として冬嗣の立場を確固たるものにしました。これによって北家が藤原氏の嫡流となり、外戚となることで北家は政治基盤を安定させることに成功し、今後の発展の基本を作っていきました。

冬嗣以降の藤原北家については歴史の授業で皆さんも習った、応天門の変、菅原道真の左遷(昌泰の変)とあり、最後に安和の変で藤原氏の多氏排斥は完了します。その後は北家内、更には親子・兄弟・親戚内での権力争いに移行していきます。道長の父である兼家とその兄の兼通、道長の二人の兄の道隆と道兼の兄弟争いや、道長と兄の道隆の子である伊周(これちか)という具合になります。ただこれはこの時代に限ったことではなく、後の保元の乱の原因も道長の子孫にあたる北家嫡流・御堂流の父(忠実)・次男(頼長)と長男(忠通)の争いに武家の源氏(源為義と義朝)と平氏(平忠正と清盛)、更には天皇家(崇徳上皇と後白河天皇)の争いが重なって乱が起こっています。今年の大河は紫式部を中心に道長を描いていくのは皆さんもご認識のことと思います。このドラマの中で出てくる主要な人物はほとんどが北家の人物であることにお気付きでしょうか。つまり何が言いたいかというと道長の頃には北家以外の藤原氏はほぼ居ないんです。居たとしても下級貴族であり、都ではなく地方に行っています。その点を認識して今回の大河を見るとまた違った視点で見れるかも知れませんね。

では最初にお伝えした通り、藤原氏の全盛期を築いた道長が物凄い政治家であったのかということについて、私はそうは思っていません。結論から言うと「ラッキーだった」「運が良かった」と思っています。というのも、第1に父親である兼家が権力に対して殊の外、執着する人で、汚い方法を使ってでも権力を手中に収めようとした人物であったこと。これによって自然と道長の地位も上がりました。また姉である詮子(せんし・あきこ)に可愛がられ、その後も様々な点で道長を助けられました。大河でもそのように描かれていますし、今のところ今回の大河もそういった解釈のようですね。

第2に兼家が亡くなった後の政権において、兄の道隆が首班となりますが5年で亡くなり、更にもう一人の兄の道兼も数日で亡くなっています。七日関白と呼ばれていて、ラッキーであった、運が良かったように思えます。ただ、この道兼の死はもしかすると毒殺かも知れないと言われています。大河でも後の紫式部や道長が何かしたのではないか、そういった伏線が張られているように思えます。ただ決して道兼が紫式部の母親を殺したとは思っていませんし、それは無いと断言できますね。

第3に正妻である源倫子(みなもとのともこ・りんし)と結婚(婿入り)したことにあります。この倫子は宇多天皇の曾孫で父の源雅信(みなもとのまさのぶ・宇多源氏)は当時左大臣、兼家と共に権力の中心にいて、その倫子と結婚することによって、道長は宇多源氏の財や権力を継承することになります。更に先にもお伝えしました、天皇家の外戚になることが権力を手中に収める方法と言いましたが、道長は倫子との間に4人の娘を作りました。その4人が全て天皇家に入内し、それぞれ後の天皇を生んでいます。これによって道長は天皇の外戚となり権力を長期に渡って保持します。

ある意味で道長に際立った政治的能力が無くとも自身の家と正妻の家柄や財、子(特に女子)を成す力、人に好かれる能力があれば良かったのではないかと思ってしまう点が多いように思います。ただ、このような穿った考えで大河を見てしまうと面白味が無くなってしまうので、こういった考えは止めようと思いますね。

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」

このような歌を道長は残したと言われています。

藤原氏嫡流は道長以降も続いて、現在も脈々と続いています。ただ「藤原」という名ではないことは歴史好きの方々でしたらご認識のことと思います。道長の子孫は後に5家に分家します。「近衛(このえ)」、「九条(くじょう)」、「鷹司(たかつかさ)」、「一条(いちじょう)」、「二条(にじょう)」がそれで「五摂家(ごせっけ)」と呼ばれています。この五摂家で摂政・関白の職を代々世襲していくようになります。時代に名を歴史に残す人物をそれぞれが輩出していきます。皆さんの中にも幾人かの人物が頭に浮かんでいるのではないでしょうか。日本で天皇家以外ではこの藤原氏が日本史上最大の氏族であり、確かな系図が残っている家であると思います。いや、最大は源氏だ!いや平氏だ!と言う方もいるかと思いますが、源氏や平氏とは幾つかの系統(○○源氏や●●平氏)があり、更に江戸時代の大名は自身の家の格を良く見せるために「系図」を買ったり、自称していましたので信じられないものばかりです。徳川家もその一つであることは有名ですね。

皆さんの中にも実は「藤原氏」の血が流れているかも知れませんよ。藤原氏所縁の名字というのがあって、「藤」の字がついたのが有名です。名字のことについては次回お伝えできればと思いますので、お楽しみに。

最後に、元旦に起こった能登半島地震に被災された方々は今も日々の生活にも大変ご苦労されていると思います。一日も早い地元の復興と安らかな日々を迎えられるように願っています。