さて、今回は先月の「豪姫」に引き続いて戦国時代のある女性にスポットをあててお伝えしたいと考えています。その人物は織田信長の姪、浅井三姉妹(茶々・初・江)の長女で豊臣秀吉の側室、豊臣秀頼の母になった茶々(ちゃちゃ、淀殿、以下「淀殿」)についてです。
戦国時代を描くドラマや映画において、浅井三姉妹は必ず出てきますし、エピソードも取り上げられます。多くが「悲劇のヒロイン」として取り上げられるものだと思いますが、今回はそういった点ではない別の意味で取り上げ、お伝えしたいと考えています。
淀殿は近江国小谷(滋賀県長浜市)の戦国大名・浅井長政を父、織田信長の妹・お市を母として、1569年に生まれました。妹には初(京極高次の正室)、江(徳川秀忠の正室)がいます。浅井三姉妹が悲劇のヒロインである理由は皆さんもご存じであると思いますが、その理由が父・浅井長政が妻の兄である伯父・織田信長に討たれたこと、更には母が再婚した柴田勝家も羽柴(豊臣)秀吉に討たれ、淀殿にいたってはその父母を倒した秀吉の側室になっているという、その時の権力者に屈してしまった悲しい女性と考えられているからかと思います。確かに父母と継父を殺されているので「悲劇」的な面も充分あるのも確かですが、そればかりではないと私は考えています。
私がそればかりではないと思うのは、淀殿の権力への執着と血に対するプライドがとても強かったことが挙げられます。天下人・信長を間近で見て、その天下人と同じ血が流れていることに誇りを持っていたと思いますし、自身の父母及び継父を殺した張本人の側室になるという通常では考えられないことを行っているのが、その証左であると思います。また秀吉が亡くなり、秀頼の時代になると政治的な事案にも関わるようになって、実質大坂城の主と呼ばれていました。
実際、大坂冬・夏の陣では軍議などにも出席し、天下の名城である大坂城に籠城派として、真田信繁(幸村)や後藤又兵衛など積極的に城から出て、野戦で勝負をしようと考えていた武将たちと様々な点で衝突していました。また、その際に信繁や又兵衛は秀頼の出陣を何度も要請したのですが、城から一歩も出さなかったと言われています。淀殿にとって秀頼は自身が実質的な大坂城の主として居続ける為に必要な飾りだったのかも知れません。一方で秀頼は実は大変優秀な武将・城主であったという話もあります。では何故そんなに優秀な人間が盲目的に母に従って、最後は一緒に亡くなったのだろうという疑問があります。秀頼は母の権力への執拗なまでの執着の源が自分自身の存在であり、母を天下の名城・大坂城の主として一生を終えて貰いたかった、優しさではなかったかと思います。
皆さんの中には【大坂城】と記載しているのに違和感がある方もいらっしゃるのではないかと思います。現在の【大阪城】は豊臣家が滅んだ際の焼け跡に、徳川家が西国に睨みを利かせる要として再建したもので、秀吉が築城した当時日本一の城ほどではないのですが、幕府直轄の城として大坂城代を置く重要な城でした。名称は江戸中期には「大坂」と「大阪」が併用されるようになり、明治維新後に【大阪府】を置いて、「大阪」が正式な表記とされ、併せて「大阪城」となりました。
「大坂」「大阪」という地名はそれより前は、【なにわ】(「浪速」「難波(「なんば」ではありません)」「浪花」「浪華」)と呼ばれて表記されていましたが、浄土真宗中興の祖である蓮如(れんにょ)が現在の大阪城の場所に石山御坊(石山本願寺)を建立し、その勢力範囲を周辺に伸ばすことによって、大坂という呼称が定着したようです。ただ「大坂」は「小坂」と表記された文献もあったようです。
浅井三姉妹と呼ばれる三人の女性はそれぞれ歴史に名を残しています。三姉妹の内、淀殿と江の夫や息子が天下人になっています。豊臣秀吉や秀頼、徳川秀忠や家光がそれに当たります。さらに、武家だけでなく公家の九条家にもその血は流れて、最終的には天皇家にも浅井家の血が流れています。淀殿には秀頼と鶴松(早くに亡くなっています)しか子供はいませんので、九条家に嫁いだ娘は妹である江の子で、淀殿の養女となっていました。この九条家は五摂家の一家で、代々の当主が関白や摂政などになる最高位の公家の一つです。当然ながら天皇家とも近いので、中宮(后)などを輩出しますので、当然かもしれませんが、日本で最も高貴な家と繋がっています。因みにこのコラムでも天皇家に娘を入内させて徳川の血で天皇家を血の面でも支配しようと徳川家は何度も試みてきましたが、結局失敗しています。歴史を振り返ってみると武家が政権を取った平清盛の時代から源頼朝(鎌倉幕府)、足利尊氏(室町幕府)、豊臣秀吉、徳川家康(江戸幕府)と武家政権は揃って天皇家に自身の一族の血を入れたいと考えていたように思います。これは天皇家には目に見えない力や日本人の心の奥底に天皇家を敬い、奉るという遺伝子(精神)があって、それを畏怖していた証拠なのではないかと思います。
表題にある「日本三大悪女」というのが誰を指す言葉なのか皆さんご存じでしょうか。中国にも同じように「三大悪女」というものがあります。「日本三大悪女」と呼ばれるのは源頼朝の正室・北条政子(ほうじょうまさこ)、足利義政の正室・日野富子(ひのとみこ)、そして淀殿の3名になります。どうして悪女と呼ばれるようになったのかを細かくはここでは述べませんが、3人とも夫や息子が頼りなかったことや3人とも男性顔負けのバイタリティに富み、行動力や決断力に長けた女性であったからだと思います。「悪女」といわれるのもその業績(行動)などから理解できますが、現在での悪い意味ばかりではないように思えます。実際に【悪】という言葉には様々な意味があって、その中には接頭語として『人名や官職名などに付いて、性質・能力・行動などがあまりにも優れているのを恐れて』使う場合や『荒々しい、強い』という意味もあり、その意味で使われているのではないかと私は考えています。例としては「悪源太(あくげんた・頼朝の兄・義平がそう呼ばれました)」「悪党(あくとう)」などです。
夫や子供と比較して3人ともが強かったのは確かですし、実質的にも幕府(政権)などを主導的な立場に立って天下を動かしていました。1221年の承久の乱において後鳥羽上皇と戦う御家人を鼓舞し、勝利に導いたのは北条政子であり、1467年の応仁の乱後の幕府を財政的に支え、幕閣首脳と政策決定に携わったのは「御台所(みだいどころ)」としての日野富子であったし、秀吉没後の豊臣政権を内政・外交ともに豊臣家を支え決定していたのは淀殿であったことは歴史の史実が示しています。彼女たちが幕府(政権)を混乱させ、そのために幕府や家を滅ぼしてしまったことは現代の意味同様【悪】であったかと思いますが、そのことと同じように実績や行動で歴史に跡を残していることをもう一度見直してみるべきではないかと私は思います。