さて、今回は先月の「淀殿」からの流れで三大悪女の一人で、尼将軍(あましょうぐん)・尼御台(あまみだい)と呼ばれ、鎌倉幕府の幕政の実権を握り未曾有の朝廷との戦い(承久の乱)に勝利を治めることに貢献した「北条政子(ほうじょうまさこ)、以下【政子】」についてです。私の率直な政子についての所感は、この女性ほどそれまで「公家(貴族)の犬」と蔑まれ、奴隷のように使われてきた武士(御家人)の為に自分の夫である源頼朝(みなもとのよりとも、以下「頼朝」))が作り上げた【武士による武士のために作った政権・鎌倉幕府】と「源頼朝」というカリスマを自身の人生をかけて守ろうとした人は居なかったのではないかと思います。ある意味で政子は冷静に物事や人物を分析して、先の先まで見据えた的確な指示や考えをする一方で、物凄く感情的で突拍子もない行動をする女性であったと思います。それらを示すエピソードを幾つか述べていきたいと思います。
政子は1157年(保元2年)伊豆国(静岡県)の豪族、北条時政(ほうじょうときまさ)の長女として生まれました。弟には後の鎌倉幕府第2代執権になる義時(よしとき)などがいました。当時の北条氏はほんの小さな領地しか持たない弱小豪族でした。因みに頼朝が平家打倒に立ち上がり、頼りにした豪族は北条氏ではなく三浦党と呼ばれる三浦一族(三浦氏や和田氏など)や同じく秩父党と呼ばれた秩父一族(秩父氏や畠山氏など)、中村党と呼ばれた中村一族(土肥氏や土屋氏)、千葉氏や上総氏などでした。実際これらの一族が率いていた兵の数は1,000人以上でしたが、北条氏は100人程度でした。そんな小さな一族がどうやって幕府権力の全てを握るようになったか、その全ての始まりは政子が頼朝の御台(正室)になったことでした。
「源氏」はかつて東北地方(当時は蝦夷)で起こった前九年の役(1051年)、後三年の役(1083年)という2つの戦いで関東各地に勢力を張っていた坂東平氏と主従関係を結んで戦っていました。つまり頼朝は坂東平氏にとってはかつての主人の御曹司であったのです。そんな頼朝の正室である政子も頼朝同様に見られていたかと思います。
先ほどお伝えした政子の感情的な部分のエピソードをお伝えします。政子が後の2代将軍・頼家(よりいえ)を妊娠中に頼朝は亀の前という女性を寵愛するようになり、近くに呼び寄せて通うようになっていきました。これを父・時政の後妻・牧の方から知らされた政子は嫉妬にかられて激怒します。牧の方の父親に命じて、亀の前の住んでいた伏見広綱(フシミヒロツネ)の邸を打ち壊させ、亀の前はほうほうの体で逃げ出しました。頼朝は激怒して牧宗親(まきむねちか・牧の方の父)を詰問し、自らの手で宗親の髻(もとどり)を切り落とす恥辱を与えました。しかし政子の怒りは収まらず、伏見広綱を遠江国(静岡県)へ流罪にしました。政子の嫉妬深さは一夫多妻制が当然だった当時の女性としては異例のことでした。頼朝も都の貴族社会の中で育ったので、それが当たり前であるという認識だったのかも知れないですね。ただ、政子の嫉妬深さを恐れて半ば隠れるように多くの女性のところへ通っていました。源氏の棟梁として一族繁栄の為には多くの子供を作っていくことが常識・義務の範疇として社会的にも当然のことと考えられていたのではありますが、政子はそうではなかったようですね。ただ政子がこういった態度や考えを持つのも分かる気がします。北条氏は弱小豪族であり、頼朝は源氏の棟梁という「貴種(きしゅ:高貴な家柄の出身)」であり、釣り合いが取れない不釣り合いな出自であったと感じていたからではないかと思います。
次は人間味のあるエピソードをお伝えします。平氏滅亡後に頼朝は弟である義経(よしつね)と対立し、挙兵に失敗した義経は郎党や妻女などを連れて都を落ちて、陸奥国(岩手県)平泉を目指します。その中で義経の愛妾・静御前(しずかごぜん)が捕らえられ鎌倉へ送られてきます。政子は白拍子(しらびょうし)の名手である静御前に舞を所望し、鶴岡八幡宮で白拍子の舞を披露しました。
しかし、頼朝の目の前で「吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき 」「しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな 」と義経を慕う歌を詠った。これに頼朝は激怒するが、政子は流人であった頼朝との辛い馴れ初めと挙兵のときの不安の日々を語り「私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません」ととりなした。政子のこの言葉に頼朝は怒りを鎮めて静に褒美を与えたと言われています。
最後は冷静、冷徹な部分のエピソードをお伝えします。頼朝がまだ存命の時に富士の峯で大規模な巻狩りを催したことがありました。その際に頼家が鹿を射ると喜んだ頼朝は使者を立てて政子に伝えましたが、政子は「武家の跡取りが鹿を獲ったぐらいで騒ぐことではない」と使者を追い返しています。このエピソードは政子の気の強さを表す一方で、カリスマ頼朝の後継ぎとして、頼家に厳しく母親としての立場よりも頼朝の御台として、武家政権の今後を見通しての言葉のように思えます。またこの富士の峯の巻狩りで「曾我兄弟の仇討」事件が起こっています。この事件の詳細についてはここでは省略しますが、この事件で頼朝が殺されたと流言があり、鎌倉の政子は大変心配していたのですが鎌倉に残っていた頼朝の弟・範頼(のりより)が「源氏にはわたくしがおりますからご心配ください」と政子を慰めました。鎌倉に帰った頼朝が政子から範頼のこの言葉を聞いて猜疑心にかられ、範頼は伊豆国修善寺に幽閉され、殺されています。頼朝の猜疑心を煽ることでこの結果となることは政子には分かっていたはずです。それを敢えて伝えたのは頼朝が作った武家政権を守るのは自分と自分が生んだ息子たちと北条氏であるという覚悟もあったのかもしれないですね。この延長上には自分と実家である北条氏を脅かす存在になると判断したら息子とは言えども容赦はしませんでした。頼家は北条氏の専横を排除しようと画策していましたが、先手を打たれて逆に政子の命令で出家させられ将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され、翌年亡くなっています。幽閉された場所が範頼と同じであることが意味がありそうな気もしますね。「修善寺」は温泉や作家である夏目漱石や岡本綺堂(おかもときどう)の作品でも有名ですね。
さて、政子の最大のエピソードは幕府が朝敵となった承久の乱の際の御家人への言葉であると思います。御家人の天皇や朝廷への畏怖がこの当時はまだ現在人が考えられないほど大きく、その動揺は計り知れないものであったと思います。その内容は「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」というものです。この言葉で御家人の動揺は収まり、軍議か開かれたがその際にも箱根・足柄での防御策が大勢を占めていたのですが、京への進軍する積極策を政子の裁断で決定しています。このエピソードだけを聞くと政子は頼朝と共に作った武家政権(鎌倉幕府)を守りたいという一心であったように思います。その点はこのコラムでもお伝えした豊臣秀吉と北政所(寧々)と同じような気持ちであったように思われます。
最後に政子は1225年に亡くなっているのですが、お墓は神奈川県鎌倉市の寿福寺(じゅふくじ・鎌倉五山第3位)に息子である実朝の隣にあります。頼家の件は別として実朝が暗殺されたことは痛手であったと思われますね。実朝は和歌の才能もあったので武家の棟梁というより、象徴としての役割と朝廷との調和の役割を担っていました。母親として実朝を死後も守らないといけないという気持ちがあったのではないでしょうか。優しい一面を感じてしまいますね。 再来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では義時が主人公になりますが、当然姉である政子のエピソードも多く出てくると思います。因みに私の地元の豪族・三浦一族が政子や北条氏とどういった絡みになるのかも注目していこうと考えていますが、そういった視点で大河ドラマを観るのも面白いかと思いますね。