皆さん、こんにちは。9月・10月と台風が関東地方を続けて襲い、各地での甚大な被害の報道がされていて、自然の驚異を改めて感じています。特に水の力に対する人間の無力さを見せつけられているようでした。来年以降に発生し、日本付近にやってくる台風の勢力が強くなることは誰の目にも明らかで、私たちは自らが自らを守る「自助」への心掛けをより一層持たなければならないのだと改めて感じました。被災された方の1日も早い以前同様の生活への回復を心より願っています。

さて、今回は10月22日に行われた「即位礼正殿の儀(そくいれいせいでんのぎ)」を皆さんもテレビ等でご覧になられたかと思います。血筋(系図)としてはっきりしている西暦507年即位の26代・継体(けいたい)天皇から126代・1500年以上続く歴代の天皇の中でも皆さんも大変良く知っている天皇について述べていきたいと考えています。

ここで取り上げるのは【第96代・後醍醐(ごだいご)天皇】です。皆さんも学生時代に歴史の時間で一度はこの名前を聞いたことと思います。30代後半以上の方々にはこの名を聞くと「モンキーマジック」や「ガンダーラ」等のヒット曲で有名なロックバンドの「ゴダイゴ」を連想するのではないでしょうか。実はリーダーのミッキー吉野氏の「吉野」にかけて奈良県吉野に朝廷を開いた後醍醐天皇を吉野氏が子供の頃から好きだったことがバンド名の由来とも言われています。

後醍醐天皇が活躍した時代は、皆さんもご存じの鎌倉時代末期から南北朝時代になります。この南北朝時代の中心人物であり、南北朝時代のきっかけを作った天皇でもあります。日本が南朝・北朝の二つに分かれ、天皇家だけでなく、公家や武家が親子兄弟、一族もどちらかに分かれて共に「正統性」を追求していました。

皆さんも後醍醐天皇を何となく覚えているのは鎌倉幕府を倒し(倒幕)、「建武の新政(けんむのしんせい)」を行ったことではないでしょうか。後醍醐天皇の倒幕の意思と行動は、それまでの天皇にはない執念に似たものがあったと思います。武力を持って倒幕の挙兵をして実際に笠置山(かさぎやま・京都府相楽郡笠置町)に籠城したり、隠岐島(おきのしま・島根県隠岐郡)に流罪になって幕府から天皇の位を廃位させられても隠岐島から脱出し、自らの意思を貫き倒幕を諦めることなく実行し、成功させました。

ただ、倒幕には後醍醐天皇の力も必要でありましたが、足利尊氏(あしかがたがうじ・当時は高氏)や新田義貞(にったよしさだ)、楠木正成(くすのきまさしげ)等の武家(御家人)の力も必要で、武家の幕府への不平不満もこの時期には限界に達していたのも成功した要因だと思います。

後醍醐天皇には数多くの皇子がいる中で、倒幕の際に活躍した「護良親王(もりよし、もりながしんのう)」と建武の新政後に活躍した「懐良親王(かねよし、かねながしんのう)」の二人が有名です。

倒幕の成功の要因は護良親王の力もあったと思います。護良親王は父親である後醍醐天皇が倒幕を決意した時から、倒幕の現場での天皇の代行者として、命をかけて幕府軍と何度も戦いました。その功績に報いて建武の新政が始まった時には「征夷大将軍」に任命されました。建武の新政の当初から護良親王は足利尊氏に対して、後醍醐天皇が目指す「天皇親政(てんのうしんせい)」を脅かす存在であると見ていました。逆に足利尊氏は護良親王を天皇親政を永続させるためには、「征夷大将軍」は武家が、源氏の嫡流である自分がなるべきだと考えていました。特にその思いを言動や態度で示していたのが足利尊氏の弟、足利直義(あしかがただよし)でした。このことが影響して、後に護良親王は鎌倉二階堂ヶ谷の東光寺(とうこうじ)に幽閉され、中先代の乱(なかせんだいのらん)の際に、足利直義の家臣によって命を絶たれました。生前、護良親王が心配していた通り、護良親王の死により足利尊氏の勢力が拡大し、天皇を取り巻く力が著しく削がれ、建武の新政は瓦解(崩壊)へと向かっていきました。

懐良親王の活躍は、建武の新政が崩壊した後になります。つまり吉野に後醍醐天皇が移り、吉野に朝廷を開いた後になります。実際に活躍した場所は九州になります。後醍醐天皇は数多くの皇子を全国各地に南朝の拠点作りをする為に派遣しました。懐良親王も7歳で九州へ派遣されました。その苦労は並大抵のものではなかったと思われます。何故なら天皇親政である建武の新政が崩壊し、再び武士の世(足利尊氏を中心とする政権)が始まり、天皇親政が否定された中であるからです。しかし足利政権(室町幕府)内の派閥争いである、観応の擾乱(かんおうのじょうらん)に乗じて一時期九州全域をその勢力化に収め、九州の南朝政権を樹立します。

護良も懐良も後醍醐天皇による「天皇親政」を絶対と考え、自らの命をかけて戦い、志なかばで亡くなっています。後醍醐天皇自身も吉野の山奥で京都御所に帰ることを夢見ながら亡くなっています。

最後に後醍醐天皇に反旗しめして室町幕府を開いた足利尊氏は、後醍醐天皇を生涯慕っていたと言われています。その証左として後醍醐天皇の死後、のちに京都五山の筆頭寺院となる「天龍寺(てんりゅうじ)」を後醍醐天皇の菩提を弔うために建立しています。北朝側の足利尊氏にとって、北朝の天皇の菩提を弔うのが普通ではないかと思いますが、足利尊氏にとって天皇(その当時は主上【ミカド】)はその生涯で後醍醐天皇のみであったのかもしれないですね。足利尊氏の晩年は弟である足利直義を自ら暗殺し、庶長子(側室から生まれた最初の子)である足利直冬(あしかがただふゆ、直義の養子)と後継ぎである嫡男(正室から生まれた子)二代将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)の争いなど身内の権力争いを行い、見てきましたので、後醍醐天皇を弔うことで俗世から離れていたいと考えていたのかもしれないです。

明治天皇により、南朝が正統であると公式に示されると戦前において足利尊氏は「朝敵(ちょうてき)」とみなされました。その影響は政治の世界にも及んでいました。1934年(昭和9年)斎藤実(さいとうまこと)内閣の商工務大臣の中島久万吉(なかじまくまきち)男爵が過去に「足利尊氏を再評価すべき」という文章を主筆していたものが発見され、大臣を辞職しています。今の閣僚の方々の失言は訂正すれば良いみたいな風潮があるのとは全く違うので不思議な感じがします。ただ足利尊氏も再評価されるべき人物ではないかと考えていますし、実際には様々な資料が発見されたり、研究が進んでいるので、その状況を皆さんにいつかお伝え出来れば思います。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。