渋沢栄一は染料となる藍を固めた藍玉の製造販売や養蚕を営む富農の家に生まれ、幼いころから、商売が身近にあったため、14歳頃には一人で、仕入れを行うほどの経営感覚を備えていたそうである。埼玉県の農家の若者が、幕末、攘夷思想の影響を受けて、倒幕を目指し、高崎城の乗っ取りや横浜外国人居留地焼き討ちを企てるのが23歳の頃。直前に止められて京都に逃げる。そこで逆に、一橋家の、徳川慶喜に仕えるようになり、慶喜が15代将軍になったことで、幕臣に取り立てられる。
そこで栄一の生涯の基礎を築く、パリ万博使節団の一員として欧州に派遣される機会を得る。1867年の渡欧である。そのまま2年弱欧州に滞在して、まずスエズ運河を一企業が作っていることに感動する。そこで、西洋の経済や行政、政治の仕組みを学び、使節団の資金を実際に公債に投資して、運用に成功する経験も積んでいる。その間に明治維新が起きて新政府となり、帰国後、新政府に招聘されて官僚となる。
しかしやがて、民間経済を興すことを自らの使命と見定め、大蔵省を辞して第一国立銀行を開業したのが33歳であった。
渋沢は農民だった若い頃に、地元の代官から軽蔑され嘲弄される屈辱的な扱いを受けている。この不条理に対する憤りが、まず彼に武士になることへの想いを起こさせた。さらに、西洋を訪れたときに官と民の人間が対等に話しているのを見て、官尊民卑を打破したいという思いを強めていった。
渋沢が民間に出ることを決意した際に「民だと一生、官に頭が上がらないぞ」と慰留されるが、渋沢は決意を変えることはなかった。
そして昭和6年91歳で亡くなるまで、500を超す企業と、600を超す社会事業の設立に関わった。
今でも私達になじみの会社が多く含まれる。国の産業化のためにまず何が必要かということは起業していく資金提供の仕組みづくりであろう。渋沢はまさにこの最初のテーマに貢献した。我が国最初の銀行の創設である。はからずも、「銀行」という名前も渋沢が作ったものである。まず経済の血流である銀行制度に着手しその次に製紙会社を設立している。明治になって税は紙幣でおさめることになり、また全国で義務教育がスタートして教科書が必要になり、また情報の公開としての新聞紙など、大量の安価な紙が必要になったからである。
その次は産業のインフラ作りである。まず各地に鉄道会社を設立させ、それに付随して港湾、ガス、電気といった今、有名企業のほとんどの設立を促進させた。まさに起業の順番は産業立国の理にかなっている。しかも公益企業を株式会社制度の仕組みを駆使して、そのために東京証券取引所も設立しているのである。
彼には特定の人だけが儲かる状況をよしとせず。「多くの人を日本の産業化に参加させ、経済発展の恩恵を受けられる社会にしたい」という理念があった。そのため経営者として事業の仕組みを作ったら、すぐに経営を別の人に譲り、人材を育て登用して、多くの会社と同時に多くの産業人も育成した。渋沢はありあまる企画、アイデアで自ら創業したチャンスを決して独り占めすることなく、次々と将来の日本の基幹企業を株式会社制度を利用して設立、他の経営人に公開していった。まさに開かれた会社作りである。
渋沢に代表される『合本主義』の経営哲学である。
資本主義のベースが利潤追求だとすると、「合本主義」の思想は、利益追求と道徳倫理心は不可分であるという彼の信念である。
結果として、様々な人が経済活動に参加して、利潤追求と、社会貢献を達成できるような日本資本主義の基盤を作り、多くの戦後の有名起業経営者の手本となったのが渋沢栄一著の「論語と算盤」であった。
これについては、かの「経営学の父」である、ピーター・ドラッカーもその幾冊の著書で度々、絶賛していることでもわかるのである。
ドラッカーはこういっている
「渋沢栄一が、誰よりも早く、1870年代から80年代にかけて、企業と国家の目標、企業のニーズと個人の倫理との関係という本質的な問いを提起した。20世紀に日本は経済大国として興隆したが、それは渋沢栄一の思想と業績によるところが大きい」
女性平等の観点から日本女子大の設立から多くの女子教育の学校も起こし、それらの経営のかたわら日本赤十字社など実に600以上の社会福祉事業も興しているのである。
渋沢は晩年に至るまで、面会を希望する多くの人と会っていたといわれる、功成りとげると重要人物としか会わないというのが普通であるが、この偉人は、分け隔てなく多くの人の要望を聞き、できるかぎり対処してたという。この様なまさに言行一致の精神を終生持ち続けた人間を日本人は近代で持ったということを、今の各界のリーダー達のお粗末さを聞けば聞くほど、誇りとしなければならないと思うのである。