今年の6月の国会の党首討論で菅首相は15歳の時に見た、1964年の東京五輪の感動を珍しく熱心に語っていた。筆者も17歳の時の感動は今でも思い出す。
東京五輪の印象が強烈なのはまだ戦災の記憶が生生しく残る戦後19年で血のにじむ努力で戦後復興を果たした日本が、堂々と世界の人々に胸を張れる戦後初めての象徴的出来事であったからである。
読売新聞の2011年の世論調査では「昭和の時代を象徴すると思う出来事」の第1位は「東京オリンピック」だった。2位は「原爆投下」、3位は「バブル景気」、4位は「石油ショック」、5位は「真珠湾攻撃、対米開戦」である。
今から50年後に行われる世論調査で、一体、今回の五輪は何位を獲得することであろうか?
日本は戦争で世界との交流や交易を全て失った。52年の「サンフランシスコ講和条約」、56年の「国際連合加盟」を経てもなお、その影響は続いていた。外国為替取引は抑制され、それを介しての貿易や海外渡航も制限されていた。商用や、留学など政府に厳格に審査され、簡単には外国には行けなかった時代である。
この状況が解消されたのはオリンピックが開催される1964年に合わせてだった。この年の4月に日本はIMF(国際通貨基金)8条国になり、為替と海外渡航の自由を取り戻した。これと同時にOECD(経済協力開発機構)への加盟を果たし、先進国入りを認められた。つまりオリンピック開催の絶大な効果である。日本の国際社会復帰の起爆剤が1964年東京五輪の最大のレガシーである。
ヒト、モノ、カネの自由な移動と、戦後の困窮からやっと脱し、人々の気持ちもようやく未来に希望を持ち、まさに外に向かわんとしていた64年の秋に東京五輪の開会式が行われた。NHKの伝説的アナウンサーの北出清五郎が「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような素晴らしい秋日和でございます」との出だしは今でも名セリフとなって語り継がれている。選手団入場の時「心も浮きたつような古関雄二作曲のオリンピックマーチが鳴り響きます」といって選手団が入場してきた時、ほとんどの当時の日本人の大人は感涙していたものである。
こうした64年の東京五輪の栄光を夢見て、夢よもう一度と、今回のオリンピックは前回の五輪に感動した世代が中心となって、招致されたのである。だが、64年と21年では時代も社会も人々の心も全く違うのである。第一にオリンピック自体がとことん商業主義化してしまっている。もちろん、選手もスタッフも大変な困難な状況下にあって、立派に健闘し数多くの感動やエピソードを国民にもたらしてくれたが、社会全体が地鳴りの様に興奮した64年と同等のインパクトは残せなかった。
そもそも2020オリンピックは開催以前から何かとアクシデントが続いた。例えば、大会エンブレムが、ベルギーから盗作疑惑を指摘され撤回された。国際コンペで決めた新国立競技場の設計も撤回された。JOC(日本オリンピック委員会)竹田会長は大会招致をめぐる贈賄疑惑でフランス司法当局の捜査対象となり、退任した。さらに開催直前に、大会組織委員会森会長がジェンダー問題で辞任し、演出担当の数人が同じく人権問題で、相次いで辞任や解任に追い込まれた。勿論最大はコロナ禍により、オリンピック史上初めての1年延期に追い込まれたことである。中止は5回あるがその内2回は1940年の東京夏季五輪と札幌冬季五輪の日本である。その点で将来呪われた東京五輪大会と言われるようなことを危惧するのである。
それぞれの経緯をみると、以前であれば、また日本の関係者の内輪であれば、あいまいに済まされていた問題である。しかし、情報化とグローバル化が進んだ現代では事態はすぐに国内外に拡散する。特に人権と多様性を標榜するオリンピックの中では決して許されない出来事であったはずである。多くのスポンサー企業もたちまち、人権や多様性に、企業活動を合わせる動きが顕著になった。日本の社会にこの五輪がレガシーを残すとすると、国内外の差別や、偏見、人権や多様性について、本格的に向き合うことの最大のきっかけになったということではないだろうか。
64年の東京五輪は日本が未来を目指し、外に向かって開かれたエポックとして記憶された。21年の東京五輪は過去の栄光よ再びと始まったが、日本の内向きの論理が現代には通用しないと、重く気づかされたエポックであった。ここから何を学び、未来にどう活かすか。それぞれが考えることが 「TOKYO2020」の本当の遺産となるはずである。