江戸幕府において、井伊家は譜代大名の筆頭として、他の大名家と比べても類を見ない、大老を6人も輩出しました。これは幕府にとって井伊家が重要な家であり、その能力を代々の当主が持ち続けたことを示していた稀有な家だったことの証左だと思います。
徳川家臣団の中で、数多くの譜代大名と呼ばれる家がある中で、井伊家が幕府開設当初から、どうして筆頭家になれたのか。初代の井伊直政が群を抜いた能力をもっていたからというのもあるかも知れないですが、私は「血」ではないかと考えています。
ここで言う「血」とは【今川家の「血」】のことです。徳川家康の最初の正室は通称「築山御前」と呼ばれた女性でした。この女性の母が今川義元の伯母や妹であった、また井伊直平の孫娘で今川義元の側室となり、後に一族の関口親永に嫁したとも言われています。どちらにしても関口家は今川家の近親であるので、今川家の「血」を継承してます。また井伊家にも何代にも渡って今川家の「血」が継承されていました。
実際に徳川家康が幕府を作ってから今川の「血」を継承した家、築山御前の子供たち(長男:松平(岡崎)信康、長女:亀姫)の家系は女系一族として数々の家に繋がっています。その詳細はまた次回にお伝えしていきます。
ただ、徳川家康はその長男である松平(岡崎)信康に大変期待をしていて、織田信長の命令によって自害させていますが、関ヶ原の戦いで徳川秀忠が遅参した際に「息子(信康)がいればこんな思いはしないで済んだ」と言ったとのこと、また関ヶ原の戦いの当日は奇しくも信康の21回目の命日だったそうです。
ちなみに、8月1日は徳川家康が1590年8月1日に江戸に初入府した江戸幕府にとって大事な日になります。8月1日を「八月朔日」と書き、略して「八朔(はっさく)」と呼び、全ての大名が江戸城に登城して将軍に祝賀を述べる最大の祝日でした。