皆さん、こんにちは。5月になりGWも終わり、GW中に海外や国内の観光地へ行かれた方はその余韻や疲れを感じていませんか。 また皆さんの会社にも新入社員が入り、既に配属されて新しい風が吹いているのを感じている方もいらっしゃるのではないでしょうか。

今回は、今までの評価が変化してきている、改めて見直されている人物について私感を含めて述べていきたいと思います。次の俳句を皆さんはご存じでしょうか。ご存じの方は日本史通だと思います。

『白河(松平定信)の清きに魚も住みかねて もとの濁りの田沼恋しき』と失脚後に詠われた 【田沼意次(たぬまおきつぐ)】です。

田沼意次という人物は家柄としては名門の出身という訳ではなく、紀州藩士から徳川吉宗が八代将軍に就任するにあたって、幕臣の小身旗本(600石)になった家柄の長男として江戸で生まれています。

その為、幕政を行う老中などになるために大変な努力をしたはずですし、この当時の幕府は家柄によってその役職などがほぼ決まっている世襲制が強かった中での立身出世ですから能力的にも優れていたかと思います。

出世のきっかけは九代将軍となる徳川家重の小姓となったことから、将軍側近として活躍していきます。

田沼意次の政策は一言で言うと「重商主義」でした。江戸時代は「米」が中心の農本主義的な政策が基本でした。

年貢と呼ばれる幕府の毎年の収入は「米」で計算されていました。武士の給料も米が支給されていました。

その為、天候などにその出来が左右されていたので農民だけでなく、全国の藩の財政も困窮していました。

1年おきに江戸に出府する「参勤交代」という制度が江戸時代には各藩に課せられていましたが、その移動費用が捻出出来ずに借金をする藩が続出していました。

そんな状況を小身の身分から出世した田沼意次は抜本的な改革を行います。それが「重商主義」政策、初期資本主義化、貨幣経済の推進と言っても良いものでした。

鉱山や蝦夷地(北海道)の開発や専売制、同業者による組合の設立(株仲間を結成)、外国貿易の拡大、士農工商の身分にとらわれない実力主義に基づく人材登用などがその内容になります。

市中に流れる貨幣の流通速度をコントロールして経済を活性化し、景気を刺激し、内需を拡大し、その結果利益を得た商人に課税するものでした。

これにより幕府の財政は改善へ向かい、景気も良くなることで世の中全体が明るく、活気が生まれ、しかし、急進的な改革は保守的な勢力(譜代大名)の強烈な反発を買い、失脚させられます。

その一因が息子である田沼意知(たぬまおきとも)の暗殺だと言われています。この田沼意知は当時若年寄として田沼意次の改革を実行していました。

凄く期待していたと思いますし、その実力も兼ね備えていたと思われます。田沼意次失脚後は皆さんもご存じの松平定信主導による「寛政の改革」が行われます。

その改革は祖父である八代将軍・徳川吉宗の「享保の改革」を模範とした、ある意味で保守的な華美の禁止や海外の知識等を否定したもので、田沼意次が行った改革とは正反対のもので、世の中に停滞感が充満しました。その象徴と言うべき状況を模したのが、最初に記載した俳句になります。

「寛政の改革」は改革ではなく「寛政の反動(逆行・退行)」ではないでしょうか。

私は田沼意次を革新的な人物と考えていまして、旧態依然の組織や制度に反抗した稀有な人物で、織田信長と同じような雰囲気を感じています。

とかく田沼意次に対しては「金権政治」や「賄賂」と言った言葉が付いて回っていますが、農民に重税を課すような苛政ではなく、利益を得ている者から税を徴収し、農民を富ませることで一揆などを起こしがちな農民の日々の生活を安定させようとしていたこと。

また、いち早く貨幣経済の重要性を見抜いていた点は特筆すべきだと感じています。

本格的な貨幣経済へ日本が移行するのは明治維新後(1868年)になりますので、100年近く時代の先を見越していた、先見の明はその当時としては変人だったのかもしれないですね。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。