皆さん、あけましておめでとうございます。私は今回の年越しが例年の年越しとは精神的に違うこと、言葉で表現するのは難しい神妙なものを感じましたが、皆さんはどうでしたか。 「平成」という時代が終わりを告げ、新たな時代が始まります。この新しい時代をどのようなものにするかは「本人」次第だと思いますので、私は今まで以上に目標や夢を具体的に描き、一歩ずつ進めていかなければならないと決意しました。

さて、今回も1月に起こった過去の歴史的事件とその出来事に関わった人物などについて述べていきたいと考えています。

今から114年前、1905年(明治38年)の1月1日、旅順要塞を帝国陸軍が攻略し陥落させました。これは1904年(明治37年)2月から始まる大日本帝国とロシア帝国の間で行われた、朝鮮半島と満州の権益を巡る争いが原因となって引き起こされた【日露戦争】の局地戦の一つです。皆さんも日露戦争については歴史の時間に習っているかと思います。ロシア帝国は「不凍港(ふとうこう・凍らない港)」を保有することが積年の思いでしたので、日清戦争(1894年)で清国が日本に負け、欧米列強がそれぞれの思惑で清国の各地を租借していく中で、ロシアは南下政策を積極的に進めていました。日露戦争開戦時には遼東半島を租借し、旅順港は太平洋艦隊の主力である旅順艦隊が本拠地とし、港湾を囲む山々に本格的な永久要塞(旅順要塞)を建設していました。

日本がこの日露戦争に勝利する為には、日本本土と朝鮮半島及び満州との補給路の安全確保が必須であり、朝鮮半島周辺海域の制海権を押さえる為に旅順艦隊を完全無力化が不可欠とみなしていました。また旅順要塞に立て籠もったロシア陸軍が満州南部で予想される決戦に挑む日本軍(満州軍)の背後、補給にとって重要な大連港に対する脅威である為、封じ込め若しくは無力化がこちらも必須でした。このため戦前より陸海軍双方で旅順への対応策が検討されていました。

 

海軍側の旅順港への攻撃(閉塞作戦)の中心は戦艦「三笠」を中心とした連合艦隊であり、その司令長官は東郷平八郎(とうごうへいはちろう)海軍大将でした。また陸軍側の旅順要塞攻略は満州軍総司令官・大山巌(おおやまいわお)陸軍大将、総参謀長・児玉源太郎(こだまげんたろう)陸軍大将の元にあった第3軍司令官・乃木希典(のぎまれすけ)陸軍大将が中心に行いました。実はこの東郷平八郎と乃木希典は後々ある人物を介して繋がっていきますが、その点は後程お伝えします。

連合艦隊の旅順港閉塞作戦は合計で3回行われていますが、結果として閉塞作戦は失敗に終わっています。この3回の作戦の内、2回目の作戦において広瀬武夫(ひろせたけお)海軍中佐が亡くなっています。この広瀬中佐は別の方面ではかなり有名人で、柔道家として有名でした。講道館とは加納治五郎(かのうじごろう)が日本古来の柔術から発展させた柔道の聖地です。今も「講道館杯」「加納治五郎杯」と言った柔道の大会があります。広瀬中佐は戦死の後「軍神」と崇められました。海軍の閉塞作戦はロシア本国から大遠征をしてくる世界最強と詠われた「バルチック艦隊」が旅順海域に到着するまでに作戦が完了していなければならない時間的な制限もあった作戦でした。海軍において日露戦争のクライマックスは「日本海海戦」であるのは皆さんもご存じかと思います。この時に「本日天気晴朗ノ為、我ガ連合艦隊ハ敵艦隊撃滅ニ向ケ出撃可能。ナレドモ浪高ク旧式小型艦艇及ビ水雷艇ハ出撃不可ノ為、主力艦ノミデ出撃ス」の意味を13文字に纏めた作戦参謀・秋山真之(あきやまさねゆき)海軍中佐の「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」という有名な電文が発せられます。また「皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ」という信号文も秋山の作でした。因みにこの日本海海戦には、このコラムで前回お伝えした山本五十六海軍元帥も高野五十六と言う名で少尉候補生として巡洋艦「日進」に乗船し参加しています。この時左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負っています。

 

一方、陸軍は旅順攻略に第3軍・乃木が同じくこちらも合計3回の総攻撃を実施しています。この合計3回の攻撃で延べ13万人の兵力を導入し、死傷者は約6万人に達しました。この3回目の攻撃で有名な「203高地」を占領するための攻撃があります。司令官の乃木は兵士が次々に倒されていく中で愚直に203高地攻略に執着し作戦を進めていましたが、当時から乃木のこの戦術に批判が集まっていました。自分よりも若い兵士たちが目の前で次々と倒れていくのを見て、さらに2人の子供も亡くしています。司令官として、親としてどのような心境であったのでしょうか。

児玉は乃木の親友であり、幼い頃からのライバルでしたが、乃木の軍事的才能の限界を認識しながら、一方で軍人精神と明治人の美意識の体現者として尊敬の念を持っていたともいわれています。自己のパーソナリティの限界を弁えていたが故に、無二の親友であり自分にない人格的長所を持つ乃木に対する尊敬の念を終生抱き続けたと言われ、日露戦争終結後、旅順攻略における人的被害の大きさから陸軍部内でも乃木を非難する声が上がっていましたが、児玉は「乃木でなければ旅順は落とせなかった」と一貫して乃木を擁護したと言われます。児玉の葬儀に際しては、激しい降雨をおして棺に付き添う乃木の姿が見られたと伝えられています。

この作戦で203高地を占領したことにより、高地からの砲撃により旅順要塞は陥落します。この結果、旅順港の旅順艦隊も港からの日本軍の砲撃により被弾し、沈没していきます。その後、大遠征をしてきた「バルチック艦隊」も連合艦隊に完膚なく敗れました。しかし、ロシアが日本との講和せざるを得なくなったのは、「バルチック艦隊」の完敗だけでなく、明石元二郎(あかしもとじろう)陸軍大佐らによる革命活動への支援工作が実を結び「ロシア第一革命」が起こったことがあります。

ところで、皆さんも『君死にたまふことなかれ』というフレーズを聞いたことがあるかと思います。この歌は与謝野晶子(よさのあきこ)が「明星(みょうじょう)」という文学雑誌に日露戦争に従軍している弟を思って発表したものです。実際には旅順攻略戦には参加してなかったらしいです。因みにこの与謝野晶子の孫が文部大臣や通産大臣、財務大臣を歴任して昨年惜しまれつつ亡くなった与謝野馨(よさのかおる)になります。

 

最後に日露戦争後に共に崇め奉られた乃木希典と東郷平八郎がどうして繋がっているのかについて述べてみたいと思います。二人を繋げたのは昭和天皇です。どのように繋がっているかと言いますと昭和天皇が幼少の頃、まだ迪宮(みちのみや)と呼ばれていた時に学習院初等科に入学します。その時の学習院院長が乃木でした。明治天皇は乃木が日露戦争で2人の子供を亡くしていることを知っていて、自己の孫であり将来天皇になる迪宮を自分の子供と思って教育するように委託したのでした。そして明治天皇崩御の際に明治天皇への大恩に対して乃木は夫人ともに殉じましたが、その将来の天皇を教育するという意思を継いで皇太子となった裕仁(ひろひと)親王が学習院を卒業後に皇太子専用の教育機関である東宮御学問所に入学します。その総裁が東郷でした。この学問所の創設に尽力したのも乃木でした。昭和天皇にとって乃木と東郷、2人の軍人は大変影響を及ぼした先生であり、身近な人生の先輩であったかと思います。私は文献でしか判断が出来ないのですが、乃木は明治天皇に大変信頼されていたのでしょうね。さらに東郷は大正天皇と昭和天皇の母親である貞明皇后(ていめいこうごう)に同じように大変信頼されていたと思います。戦前の天皇は「神」ですから、神に信頼されることは世間一般から見たら、尋常ではないものだったのでしょうね。昭和天皇の発言や態度、考え方などの素地はこの時期に直接関わった人たちによって作られたのではないかと勝手に思っています。