皆さん、こんにちは。3月になりまして皆さんの中には既に4月の「人事異動」の内示があった方や多くの会社が決算期である為に超多忙になっている方もいることと思います。そのように精神的にも肉体的にも厳しい中にも関わらず、花粉の飛散も本格化して集中力を維持するのも大変かと思います。花粉症の改善には食生活(身体に良い自然食材への変更、糖分や塩分、油分を減らしたり等)を見直すと効果が出やすいと仰る医師もいますので、騙されたと思って一度試してみるのも良いかも知れないですね。

さて、今回も引き続き、三月に起こった歴史的事件とその事件に関連する事柄や人物について述べていきたいと思います。今回の事件はその後の日本に多大な影響を及ぼした、安政7年3月3日(1860年3月24日)に起こった「桜田門外の変」です。

この事件は江戸城桜田門外で水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩の脱藩浪士1名の計18名が彦根藩の行列を襲撃し、藩主であり当時、幕府の政(まつりごと)を主導する最高責任者の大老であった井伊直弼(いいなおすけ)を暗殺したものです。内憂外患(ないゆうがいかん)と呼ばれていたこの幕末の時期において、直弼は優秀な人物であったと思っています。直弼の生涯や批評、エピソードについては後程幾つかお伝えしますが、ここではこの事件が起こった要因やこの当時の政治状況等について述べていきます。

 

まずこの事件の少し前から幕府は「将軍継嗣問題」と「条約問題」で揺れていました。「将軍継嗣問題」とは第13代将軍・徳川家定(とくがわいえさだ)の後継をめぐって、南紀(なんき)派と一橋派が争ったもので、第8回目のコラムでも「篤姫(あつひめ)」の時にも触れたので、覚えていらっしゃる方も多いかも知れませんね。直弼は南紀派のリーダーであり、一橋派は水戸藩、薩摩藩、越前藩が中心の派閥でした。この南紀派の勝利は『時節柄、次期将軍は年長の人が望ましい』とした朝廷の意に反するものであったと言われています。

先程述べましたが、直弼を襲ったのが水戸藩と薩摩藩の脱藩浪士であるのが、「将軍継嗣問題」も影響していることを物語っています。

歴史に「もしも(If)」は禁句なのですが、一橋派が勝利して14代将軍に一橋慶喜が就いていたら、薩摩藩や長州藩による後の明治維新は起きなかったかもしれないといったことも考えられます。何故なら一橋派に薩摩藩は属して、当時の薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったからです。

 

もう一つの「条約問題」とは、1853年のペリー来航による「日米和親条約」締結を皮切りに200数年続いてきた「鎖国」政策が崩壊し、1858年の「日米修好通商条約」など欧米列強と条約を締結していくのですが、この条約の締結に孝明天皇の勅許が得られないまま調印したことに「攘夷(じょうい)派」と呼ばれる「天皇(神)が統治する神聖不可侵な国から外国を討ち、排除しようとする考え」を持つ人々を刺激し、幕政改革や幕府を倒して天皇を中心とした新しい政治体制を目指す運動が高まっていきます。その幕政改革や幕府を倒す(倒幕)には幕府の最高権力者である大老の直弼が邪魔だということになっていきました。

事件当日は雛祭り(桃の節句)で江戸に居た全ての大名は江戸城に総登城しなければならなかったことに加えて、天候が皆さんもドラマや映画などでご覧になったことがあるかと思いますが、明け方から雪模様で一時は牡丹雪となり、事件の時刻には雨混じりの小雪が降っていました。また彦根藩士は雨合羽を羽織り、刀の柄、鞘ともに袋をかけていたので、咄嗟の迎撃が出来ず、視界も悪く襲撃する浪士達には幾つも有利な状況が重なったのでした。この事件は江戸幕府が開かれて以来、江戸市中で大名駕籠が襲われた前例がなく、彦根藩の警護も薄かったのも成功の要因の一つになったと言われています。これについては、私は別の解釈を持っています。譜代筆頭家、大老家としてのプライドと脱藩浪士など恐れる必要がない我が彦根藩(井伊の赤備え)の藩士が浪士に剣術で負けるはずがない、

況してや幕府(日本)を背負っているのは自分であるという意地があったのかもしれないですね。

 

直弼は、譜代筆頭の井伊家の第16代藩主でした。井伊家については、第1回目のコラムで「井伊直虎」についてお伝えした際に少し触れたかと思います。直弼は第13代藩主である直中(なおなか)の十四男として生まれます。現実問題として井伊家を継げるのはただ一人で、他家へ養子に行くのが妥当な流れでしたが、その養子の口もなく、17歳から32歳までの15年間を部屋住みとして過ごしました。この間、井伊家は兄2人が第14代(直亮・なおあき)、第15代(直元・なおもと)藩主となっています。後に直弼の懐刀として活躍する長野主膳(ながのしゅぜん)と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木に例え、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らしました。しかしこの埋木舎で茶道・和歌・鼓・曹洞宗の禅・兵学・居合術などを学び、一流の文化人になっています。特に茶道は「宋観(そうかん)」という名を持ち、石州流の中に一派を確立した。著書「茶湯一會集」巻頭には有名な「一期一会」があります。後世の人から見ると直弼にとって、この埋木舎での日々は決して埋もれていない、いつか必ず世に出て幕政を主導し、徳川家の為、井伊家の使命を果たすという強い意志とその為の自分磨き、より高く羽ばたく為の雌伏の時間(期間)であったのではないかと思います。

 

井伊家の上屋敷は桜田門の前にあり、事件当日もこの屋敷から直弼は江戸城へ登城していました。この当時各藩には幾つかの屋敷地が下賜されていました。皆さんも一度は「紀尾井町」という地名を聞いたことがあるかと思います。現在の上智大学の四谷キャンパス、ホテルニューオータニがある辺りですが、紀伊藩・尾張藩・井伊藩の屋敷があった為、この地名が付けられました。同じような感じで付けられた地名として南部藩の屋敷が近くにあった「南部坂」や内藤家の拝領地で新しい宿場町がつくられた「新宿(内藤新宿)」、人物が由来としている地名では織田信長の弟、織田有楽斎(おだうらくさい)の屋敷地があった「有楽町」、家康に外交官として仕え活躍したヤン・ヨーステンの屋敷地があった「八重洲」などがあります。私はこういった観点で地名を見たり、実際にその場に立ってみると不思議とその時代と繋がっているみたいな奇妙な感覚になってしまいますね。古本屋に一歩踏み入れた時も言葉では表せない不思議な感覚になります。