吉野山の桜
皆さん、こんにちは。私たちの生活はコロナによって、様々な点で変化したのですが、一方で何も変わらないものもあります。それは自然現象です。時代が変わっても時期が来ると寒暖があり、毎年同じように花は咲きます。今年もそういった自然を感じること、花を愛でることも制限されていますが、そういった気持ちを忘れないようにしていたいと思います。

今回は私が勝手に多くの日本人が好きなものとして思っている「桜・紅葉・花火・富士(不二)山」の内、「桜」に係わる有名な和歌を詠んだ「西行法師(さいぎょうほうし)」について述べていきたいと思います。

西行法師は本名を佐藤義清(さとうのりきよ)と言い、平安時代も終盤の1118年に生まれました。父系は藤原北家の家柄で、曾祖父の代から「佐藤」を称していたと言われています。由来は幾つかあるのですが、左衛門尉の藤原氏の略とさせるものから、佐野の藤原氏、佐渡の藤原氏などの諸説があります。おそらく西行の曾祖父は左衛門尉の藤原氏であったと私は考えています。理由は、西行も左衛門尉に任じられているからです。また鳥羽院の北面武士(ほくめんのぶし:院御所の北側の部屋に近衛として詰め、上皇の身辺を警護、あるいは御幸に供奉した武士のこと)として当時の武士としてはエリートでした。同時期の北面武士に若き日の平清盛がいて、おそらく面識があったのではないかと想像しています。

西行が生まれた頃になると藤原氏の摂関政治から上皇の院政が行われていた時代で、白河上皇(法皇)・鳥羽上皇(法皇)が中心となって天皇親政が行なわれていました。その権力の強大さを示した言葉が平家物語にあります。白河法皇が「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言ったという逸話が残っています。つまりこれ以外は何でも自分の意に叶ったということでした。

西行は23歳で出家しました。出家の理由は失恋や友人の死など諸説あるようですが、失恋の相手が上皇の中宮や女院などの皇族であったと言われています。そもそもが叶わぬ恋であったと思われますので、失恋と呼べるのかどうかはわかりませんね。ただこの出家への並々ならぬ決意が込められていたと思われる歌があります。出家の際に詠んだとされるものです。

「身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ」

(出家して身を捨てた人は、本当に人生を捨てたのでしょうか。いえ、俗世のしがらみに囚われた己を捨てられない人こそ、己の人生を捨てているのです。)

出家後の西行は東山、嵯峨、鞍馬などに草庵を営み、30歳頃に陸奥に最初の長旅に出ます。その後、1149年前後に高野山に入ります。さらに崇徳院の白峯陵を訪ねるために四国へ旅したりしています。また源平の戦いによって東大寺が1180年、平重衡(たいらのしげひら)による南都焼き討ちによって灰塵に帰してしまっていたのですが、西行は東大寺再建のための勧進で1186年に再度陸奥へ迎い、奥州藤原氏の3代目当主・藤原秀衡と面会しています。その途次に鎌倉で源頼朝とも面会しています。その際歌道や武道についての話しをしたと「吾妻鏡(あづまかがみ・鎌倉時代に成立した歴史書)」に記されています。面会した頼朝は和歌について尋ねますが、「和歌を作るのは、花や月を見て深く感動したときに三十一文字が浮かんでくるだけで、特別な秘訣などはありません」と西行は答えたといいます。西行の歌は、自らが頼朝に語ったように、深い感動がそのまま詠まれたものでした。

後に「新古今和歌集」の編纂を命じた後鳥羽上皇は西行について、「後鳥羽院御口伝」の中で「西行はおもしろくてしかも心ことに深く、ありがたく出できがたきかたもともにあひかねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。おぼろげの人、まねびなどすべき歌にあらず。不可説の上手なり」と述べています。

実際に新古今和歌集の編者である藤原定家(ふじわらのていか)の父であり、新古今の歌風形成に大きな役割を果たした藤原俊成(ふじわらのとしなり)とともにその後の和歌の世界に多大な影響を与えた歌人であったと言われています。その証拠として、新古今和歌集に西行の歌が94首も入撰しています。これは第1位の入撰数です。

西行は1190年2月16日に73歳で亡くなっていますが、生前に今回取り上げたかった歌を詠んでいます。

「願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月のころ」

(願うことなら、旧暦の2月15日の満月の頃、満開の桜の下で死のう)

以上のような意味になりますが、現在で言うと3月中旬以降の満月の日にあたり、ちょうど桜が花盛りを迎える時期です。自ら望んだ日のわずか1日遅れで死んだ西行に、当時の人々は驚嘆したと伝わっています。

西行は和歌だけに限らず、俳句の世界にも実は影響を及ぼしています。それは、西行が頼朝に言った言葉が示しています。西行は出家後に日本全国とは言いませんが、数多くの場所を訪れています。そこで多くの和歌を詠んでいました。これは松尾芭蕉の「奥の細道」に繋がっていると考えている歴史評論家も居るようです。その場所に行き、花や月、その地域・地形を見て感動した感情を俳句として詠む。これが西行そのものであるというのです。何となく一理あるなと私も思いました。現在でも旅行に行った際に、美しい景色や光景を眼にした際には皆さんもカメラで写真を撮ると思います。それも根底の部分は同じなのかなと勝手に思ってしまいます。

最後に西行が最も愛した桜はどこの桜だったのだろうか、それは吉野山の桜です。何故なら西行の歌には何度も「吉野」「吉野山」という地名が出てきます。吉野山の桜は皆さんの中にも見に行かれたことがある方もいらっしゃると思いますが、1300年前から「ご神木」として崇拝され、手厚く保護されてきた歴史があり、日本古来のヤマザクラを中心に約三万本という世界に類を見ない規模の桜が咲き誇り、その光景は「千本桜」「一目千本」等と形容されています。「下千本」「中千本」「上千本」「奥千本」と地名がついています。私も一度だけ見に行ったことがあるのですが、その光景に圧倒されて言葉が出ませんでした。この光景を西行も見ていたのだろうかと想像するとワクワクしていました。さらには吉野と言えば、南朝・後醍醐天皇を思い出し、後醍醐天皇も同様に同じ光景を見ていたのかなと考えてしまいました。

最初に述べた日本人の「桜・紅葉・花火・富士(不二)山」の内、最初の3つは儚さを示し、誰もが自身の人生に重ねてしまうものではないかと私は勝手に思っています。パッと可憐に咲き、その期間が短く散っていく。花火も一瞬夜空に咲き、消えてゆく。古来より日本人は「もののあはれ」を遺伝子に持っているからなのではないかと思ってしまいますね。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。