皆さん、こんにちは。平成最後の年も2か月目となりまして、あと3か月で平成31年も終わります。現在の皇太子が天皇に即位すると「第126代目」の天皇となり、元号は「248個目」となります。因みに一番最初の天皇は伝説上ではありますが、「神武(じんむ)天皇」であり、最初の元号は大化(たいか)の改新で有名な「大化」です。現在と違って明治以前の元号は天皇の即位以外でも「災異の改元」といって、災いを絶ち切り、新たな時代を生き抜いていこうという意味で時の権力者・為政者が改元を行ってきました。

さて、今回は二月に起こった歴史的事件で思い浮かぶものについてお伝えしていきたいと思います。昨年の二月にも「雪」で思い浮かぶ事件として挙げさせて頂きました「二・二六事件」になります。

「二・二六事件」は昭和11年(1936年)2月26日から29日にかけて、陸軍皇道派(こうどうは)の影響を受けた陸軍青年将校らが1483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター事件です。このクーデターの結果を先にお伝えしますと「失敗」で終わっています。青年将校の一部は自決し、大半は投降して軍法会議にかけられて、首謀者達は絞首刑になっています。

そもそもこのクーデターは何を目指していたのか、その答えは当時の政治状況や経済状況が影響していました。

先ず政治状況としては、衆議院の第一党が首相になるという「憲政の常道」がやっと日本にも根付いてきた矢先の昭和7年(1932年)5月15日に海軍の青年将校達が首相官邸に乱入し、当時の首相・犬養毅(いぬかいつよし)を殺害した五・一五事件が起こり、その後は軍部の政権運営への介入が強く反映された政権が次々と出来ていましたが、国内外の政治を顧みずに、軍部首脳は軍備拡大や陸海軍で政権の主導権争いを繰り返していました。さらに、当時の陸軍内部には二つの派閥が存在していました。「皇道派」と「統制派(とうせいは)」です。

「皇道派」は思想家である北一輝(きたいっき)の影響を受けて、天皇親政の下で国家改造・「昭和維新」を目指したものでした。一方「統制派」は陸軍大臣を通じて政治上の要望を実現するという合法的な、軍部内の規律統制の尊重を第一に考える派閥でありました。「皇道派」には荒木貞夫(あらきさだお)中将、「統制派」には永田鉄山(ながたてつざん)中将、東条英機(とうじょうひでき)中将が指導者としていました。また二つの派閥の特徴として、「皇道派」は陸軍大学校(陸大)出身者がほとんどいない20代の尉官クラスの人材が集まっていて、「統制派」には陸大出身の幹部候補生や陸軍省と参謀本部における陸大出身幕僚がそのメンバーであったと言われています。

「皇道派」が目指す政権・政治は天皇親政の強化、財閥規制などの政治への不満が第一義とされていましたから、国民の生活に近い下士官などが多く参加したはずですし、また多くの下士官は当時壊滅的な自然被害を受けていた東北出身者でしたから、この派閥が進める改革、「昭和維新」が達成されれば自分の故郷は救われると考えたに違いないと思います。

二・二六事件は何度かドラマや映画になっているので、皆さんもご覧になったことがあるかと思います。その中で描写されるのが、現在は山王パークタワーが建っている場所にあった「山王ホテル」だと思います。私は二・二六事件と言われると雪の「山王ホテル」の写真が浮かびます。帝国ホテル、第一ホテル(後の新橋第一ホテル)と並ぶ東京を代表する近代ホテルの一つでした。

事件は天皇親政を目指し、陸軍首脳部を経由して昭和天皇に上奏されましたが、天皇はこれを拒否しました。この事件で高橋是清(たかはしこれきよ)大蔵大臣、斎藤実(さいとうまこと)内大臣など数名の政府首脳が殺害され、鈴木貫太郎(すずきかんたろう)侍従長が負傷したのですから天皇が拒否をするのも当たり前かと思いますし、実は鈴木の後妻が「足立たか」という女性なのですが、この女性は明治38年(1905年)から大正4年(1915年)まで皇孫御用掛として幼少時の迪宮(昭和天皇)の養育にあたっていました。鈴木はのちに首相になるのですが、「たかは、どうしてる」「たかのことは、母のように思っている」と昭和天皇は語っていたそうですので、そんなに大事な人の夫を襲った集団を許すことは出来なかったと人間的な部分もあったのではないかと勝手に想像してしまいますね。

 

最後に皆さんは「司馬史観」という言葉を聞いたことがありますか。昨年の大河ドラマの主人公は「西郷隆盛」でした。西郷は現在も明治維新を成し遂げた大英雄として様々なメディアや雑誌で紹介されます。歴史的に「西郷待望論」というのが西郷の死後、何度か起こっています。この二・二六事件もその一つであると言われています。当時のマスコミが指導者の荒木中将の実態を知りもせずに西郷の再来を夢見て、荒木が昭和維新を遂行することを期待したのでした。しかし荒木が陸軍大臣になり実像が判明するとそのブームは無くなりました。しかしその後も「西郷待望論」は起こります。戦後の田中角栄の出現もそれに該当します。「西郷待望論」が起こるときは結果的に余り良い兆候ではないと警鐘を鳴らしたのが司馬遼太郎でした。「西郷待望論」ではないですが、「西郷ブーム」が起こっている現在は危険な状態にあるのではないかと考えてしまうのは私だけでしょうか。