今回は、『おくのほそ道』で有名な元禄7年(1694年)10月に亡くなった俳人・松尾芭蕉(まつおばしょう)についてお伝えしていきたいと考えています。『おくのほそ道』を学生時代に国語や古典の授業で習わなかった方はいないのではないでしょうか。皆さんも今でも『おくのほそ道』の最初の部分、【月日は百代の過客(はくたいのかかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり】を自然と口ずさめるのではないでしょうか。私は学生時代に暗記させられた記憶があり、同様に「平家物語【祇園精舎の鐘の声…】」や「枕草子【春はあけぼの。やうやう白くなりゆく…】」「徒然草【つれづれなるままに、日くらし硯に向かひて…】」などは今でも覚えていて最初の部分は言えますね。
芭蕉は寛永21年(1644年)伊賀国上野(三重県伊賀市)に土豪出身の松尾与左衛門と百地(ももち)氏出身と言われる母・梅との間に次男として生まれます。松尾家は苗字・帯刀を許されていましたが、身分は武士ではなく農民であったと言われています。母の父(母方祖父)は伊賀流忍者の祖である百地丹波(ももちたんば)とされている為、芭蕉には忍者説が根強くささやかれています。この百地丹波は五右衛門風呂で有名な盗賊・石川五右衛門の忍術の師とされる百地三太夫(ももちさんだゆう)と同一視されていますが、三太夫は架空の人物とされています。
芭蕉が俳諧の道に入ったのは、若くして伊賀上野藩の侍大将・藤堂新七郎良清(とうどうしんしちろうよしきよ)の嫡男・主計良忠(かずえよしただ)に仕えるようになり、この良忠が俳号を持つ俳人であったことがきっかけであると思います。 厨房役か料理人として仕えたとも言われています。しかし良忠が没すると藤堂家を退散しています。その後の芭蕉は全国の俳人仲間の周りを行き来していました。芭蕉の俳句は俳諧の純粋性を求め、世間に背を向けて老荘思想のように天(自然)に倣う中で安らぎを得ようという性質の俳句でした。
芭蕉の「おくのほそ道」はかなりの年月をかけて行われているように思われがちですが、実際は西行法師の500回忌に当たる元禄2年(1689年)3月27日に隅田川ほとりにあった「芭蕉庵」を引き払い、弟子の河合曾良(かわいそら)と出発し、8月21日頃に大垣に到着して終了した、約5ヶ月600里(約2,400キロ)の旅になります。この旅で数多くの今も残る有名な俳句を詠んでいます。
行程を示すと「江戸」→「日光」→「白河の関」→「多賀城」→「松島」→「平泉」→「立石寺」→「出羽三山」→「鶴岡・酒田」→「越後出雲崎」→「金沢」→「小松」→「大聖寺」→「越前吉崎」→「丸岡」→「敦賀」→「大垣」になります。この当時の移動手段は「徒歩」「駕籠」「馬」ですが、芭蕉と曾良は当然「徒歩」でした。この行程の中では日光から白河の関への途中、下野国(栃木県大田原市)黒羽で俳諧仲間に大いに歓迎されて「おくのほそ道」の旅程では最長となる10数日間滞在した場所などもありました。この為、大田原市には「黒羽芭蕉の館」があります。皆さんのなかにも行かれた方もいるかと思います。
ここで幾つか有名な句をお伝えします。
『夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと』(平泉で奥州藤原氏三代の栄華を偲んで)
『五月雨を 降り残してや 光堂』(中尊寺にて)
『閑(しずか)さや 岩にしみ入る 蝉の声』(出羽国(山形県)立石寺にて)
『五月雨を あつめて早し 最上川』(最上川にて)
『荒海や 佐渡によこたふ 天の川』(越後国(新潟県)出雲崎にて)
ここで挙げさせていただきました句は皆さんもご存じの句がほとんどであると思います。それほど芭蕉の句は親しみが湧き、日本人の心に沁み込んでいるのではないかと考えます。
芭蕉が「おくのほそ道」に出発した時の年齢は「45歳」でした。織田信長が好んで舞、詠ったとされる幸若舞(こうわかまい)「敦盛(あつもり)」にある一節『人間五十年 化天のうちを 比らぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を享け 滅せぬもののあるべきか』というのが当たり前であった時代において、45歳から旅に出るのはある意味で「どこで死んでも構わない」「死に場所」を求めていたようにも思えますが、実は芭蕉は藤堂家を退散してから一つの場所に定住することなく、様々な場所に居所を変えています。このことも「芭蕉忍者説」「隠密説」を助長しているのかもしれないですね。
以前、木曾義仲(きそよしなか)についてお伝えしたことと思いますが、芭蕉は遺言で【私を木曾義仲公の側に葬って欲しい】と残しています。私が考えるどうして芭蕉が木曾義仲の眠る場所の側に葬って欲しいといったかについては、「人は一瞬でも誰よりも眩しい光を放ち、悲願や夢を達成できずに散っていった人やものに憧れます」。「侘び」「さび」「儚さ」が人の心を揺さぶり、憧れるのではないかと思います。よく「花火」「桜」「紅葉」もそういったものに例えられます。芭蕉が求めた句も「侘び」「さび」の精神、「匂ひ」「響き」といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現を第一に考えていたようで、木曾義仲の生き方が芭蕉の求める究極の句に通じるものがあったのではないかと思います。
また芭蕉の俳句の理念として、「不易流行(ふえきりゅうこう)」というものがありました。これは「趣向」や表現に新奇な点がなく新古を超越した落ち着きがあるものが「不易(静的)」、その時々の風尚に従って斬新さを発揮したものが「流行(動的)」とされています。「不易」と「流行」という相反する概念を結合することで常に新しい俳諧美の創出を心掛けていました。これを芭蕉は「風雅の誠」と呼んでいたそうです。「静と動」をたった17文字の中で表現をし、さらに後世の人にその当時と同じ情景や想いを時代を超えて思い浮かべさせる言葉の選び方には凄さを感じてしまいます。
最後に、私が好きな亡くなる4日前に詠んだとされる芭蕉の句をご紹介して今回の芭蕉についての話しを締めてみたいと思います。この句に初めて触れたとき、芭蕉が歳をとっても心はいつも若者のように好奇心を持って様々なことに挑戦していった人生だったのかなと思いましたし、芭蕉が走り回っている光景が浮かびました。まさに先程の「匂ひ」「響き」「不易流行」といった嗅覚・視覚・聴覚を駆使した文章表現によって構成された情景や風景が思い浮かべられる句のように思います。
芭蕉は元禄7年(1694年)大阪の宿屋で亡くなりました。享年50歳。敬慕してやまない西行法師と同じように旅の途中でのことでした。
『旅に病(や)んで 夢は枯野(かれの)を かけ廻る』