皆さん、こんにちは。8月のお盆の際には故郷へ帰省されたり、ご家族と旅行に行かれたりと休日とは言うものの移動などもあって気を張っていたことと思います。ただお盆の時期は日本人として決して忘れてはならない「鎮魂」の期間であります。6日の広島と9日の長崎の原爆、12日の御巣鷹山、15日の終戦がそれにあたります。今一度、この時期にこれらの事件や事故について考えてみることが必要なのではないかと思っています。

さて、今回は先月から始めました新シリーズではなく9月に亡くなった歴史的な人物についてお伝えしていきたいと思います。9月は日本において歴史的にも大きな事件が起こっている月ですが、皆さんは何か思い浮かぶものがありますか。先ずは1923年(大正12年)9月1日に起こった巨大地震「関東大震災」です。現在この日は「防災の日」として多くの方が避難訓練などを行っているのではないでしょうか。「阪神淡路大震災」の1997年(平成7年)1月17日と「東日本大震災」の2011年(平成23年)3月11日と共に忘れてはならない事柄と日ではないでしょうか。二つ目は1571年(元亀2年)織田信長による「比叡山・延暦寺焼き討ち」、三つ目は1600年(慶長5年)「関ヶ原戦い」と大きな歴史の分岐点となる事件が起こっている月なんです。今回はこれらの事件についてではないので、これらについては述べていきませんが、時として歴史は一時期に集中して様々なことが起こるのも興味深いですね。

今回、皆さんにお伝えしたい人物は最下層の身分出身の夫を天下人にした女性です。「高台院(こうだいいん)」と言ってその人物について思い浮かぶ方はかなりの戦国時代通な方ではないでしょうか。「高台院」は天下人、豊臣秀吉の正室「寧々(ねね)、おね」のことです。秀吉が亡くなった後に剃髪(出家)後の法名が「高台院」と呼ばれたのですが、「寧々、おね」が一般的かと思います。寧々が信長の家臣・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう 後の豊臣秀吉)に嫁ぐのは14歳の時であったと言われています。実はこの結婚は当時としては大変珍しい「恋愛結婚」でしたが、実母は身分の差で反対していました。二人には結局子供が出来なかったのですが、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)浅野幸長(あさのゆきなが)といった秀吉や寧々自身の親類縁者を養子や家臣として養育してきました。秀吉が天下人になる過程で、織田家臣団の先輩である柴田勝家(しばたかついえ)と戦った「賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い」では、幼年期より手塩にかけて育ててきた者が大活躍をします。「賤ヶ岳の7本槍」は全て寧々が育てた者たちでした。

この者たちは秀吉の死後、寧々の影響により「関ヶ原の戦い」「大坂冬の陣・夏の陣」では徳川家康に味方しています。寧々が家康に味方するように子飼いの者たちに指示したのは、「天下は回り持ち」というこの時代共通の概念があり、織田家も豊臣家も一代限り、天下を治めるのはその時に一番強い者という考え方があったからかも知れないですね。

実は秀吉の主君である信長からも寧々は大変信頼されていました。皆さんの信長のイメージについては様々であると思いますが、信長は決して「魔王」ではなく、自己の家臣の奥方、寧々をはじめ、前田利家(まえだとしいえ)の奥方「まつ」、山内一豊(やまのうちかずとよ)の奥方「千代(ちよ)」などがその代表的で色々なやり取りをして、その心配りや配慮には人間性感じます。寧々は秀吉の浮気に度々悩んでいましたが、そんな寧々に信長が送った手紙の内容に凄く心が温かくなります。

『この前久しぶりに会ったが、あなたは一層美しさが増している。藤吉郎(秀吉)があなたに対し、色々と不満を言っているようだが、言語道断である。あのハゲネズミ(秀吉)があなたほど良き女を他に得られるはずはないのだから、あなたは奥方らしく堂々として、嫉妬などしないように。この書状は秀吉にも見せてやりなさい…』というもので、主君が家臣(部下)の奥方に出す内容の書状ではないですよね。信長にここまでの気遣いをさせる寧々の人間性や魅力があったのでしょうし、家臣の秀吉がしっかり働いていく為には、寧々の存在が絶対必要であると信長は感じていたのだと思います。さらに二人に対する信長の信頼は自身の子供である四男・秀勝(ひでかつ)を養子出していることも証拠になるのではないかと思います。

「英雄色を好む」と皆さんも聞いたことがあるかと思いますが、多分に漏れず秀吉もそうでした。その為、奥方である寧々の苦労や心労は大きかったと思います。この点で秀吉と家康が比較されるのを皆さんも聞いたことがあるのではないでしょうか。秀吉は自身の身分が低かった為、血筋の良い女性を側室に迎えています。また信長の妹・お市のことが大好きであったことから、その娘である茶々(ちゃちゃ・後の淀殿)まで側室に迎えています。この淀殿は二人の父である浅井長政(あざいながまさ)、柴田勝家を直接・間接的な事情で秀吉に殺されています。そんな親を殺した男の側室になる淀殿の気持ちは予測することしか出来ませんが、幼い頃信長の元で育ち、煌びやかな生活を送っていく中で、その生活から離れられない「権力への執着」が「親殺し」という事実よりも勝っていたからではないかと思っています。一方、家康は夫と死別や離婚した後家(ごけ)と呼ばれる女性を多く側室に迎えています。これは最初の正室が名門今川家出身の年上の女性(築山殿・つきやまどの)であったことが影響しているのかもしれないですが、ここでは割愛させていただきますが、私は本当のところはそうではないと考えています。

交友関係として、寧々と前田利家の奥方・まつ(芳春院・ほうしゅんいん)とは親密な関係であったことは有名です。同じ尾張出身で若い頃の住まいが隣同士だったこと、また山内一豊の奥方・千代とも長浜時代から親密となり、晩年を高台院屋敷の近くで生活をして、行き来をしていたと言います。肝心の淀殿との関係については、対立関係にあったと言われています。しかし私はそうではなく、むしろ協調・連携関係にあったのではないかと考えています。お互いが豊臣家のことを考え寧々は外交的な部分と秀吉の仏事を、淀殿は内政的な部分と秀頼の後見人をといった関係性だったのではないでしょうか。仲が悪く見えたり、言われているのは後の覇者である家康の創作かも知れない、歴史は勝者が作ると言われていますので、私はそう考えています。本当のところは寧々の大きな懐(ふところ)の中で、淀殿は生活していたのではないか。淀殿は豊臣家の作った寧々にとってその行く末や将来を託した後継者であり、共に秀吉に愛された同志であったと思います。 逆に家康とは親密だったと言われていますが、実はそうではなかったのではないか、単に家康が寧々の子飼いの武将たち、清正や正則、幸長を味方にしたかっただけではと思っています。一方で家康の子・秀忠(ひでただ)とは親密で、12歳で秀吉の元に人質として送られた際には、寧々と生活を共にしていましたし、秀忠にとって母親が幼少の頃に亡くなったことを知っていたので、寧々は母親として接していたと思います。その恩義を秀忠は忘れずにいて、終生上洛する際には必ず寧々を訪ねていたと言われています。その証拠に寧々が秀吉から与えられて家康に安堵された領地が家康の死後、大名なみの1万6千石まで増えています。秀忠という人物は家康と家光の間で、実は損をしているのではないか。本当は物凄く頭の切れる、優秀な人物であったのではないかと私は見ていまして、また、秀忠の正室は淀殿の妹である江(ごう)であり、江は秀忠より6歳年上で、しかも3度目の結婚でありましたが、二人の関係は良好で江との間に家光や忠長(ただなが)、東福門院(とうふくもんいん・後水尾天皇の女御)など2男5女を儲けています。さらに秀忠の実直さを示す例えとして、正式な側室を持たなかったことが挙げられます。こういった点を踏まえて、私は歴史的な評価を見直すべき人物なのではないか、いつか調べてお伝え出来れば良いなと思っています。