岐阜城
皆さん、こんにちは。あっという間に1月も過ぎ去り、2月になってしまったというのが私の感覚です。今年の冬は「超暖冬」という気象予報士も居て、実際にスキー場に雪が無くてスキー場をオープンできないというところあったらしいですね。スキーやスノーボードが好きな人には残念な感じですね。日本には「春・夏・秋・冬」の四季があるからその季節ごとの景色(風流)を楽しむことが出来たのですが、最近は春と秋がはっきりしない感じになっていて、地球温暖化の影響を痛感してしまいます。

さて、今回はいろいろありましたが、1月19日(日)から始まった大河ドラマ「麒麟がくる」の前半において、主人公・明智十兵衛光秀(あけちじゅうべいみつひで、以下「光秀」)に影響を及ぼした、「美濃の蝮(みののまむし)」こと「齋藤道三(さいとうどうさん、以下「道三」)」について話していきたいと考えています。道三については、道三自身が1代で油売りから身を起こし、美濃国の守護大名・土岐(とき)氏の重臣となり、最終的には土岐氏を追い出し(追放)、美濃国の国主になった、下克上(げこくじょう)の体現者という人物として皆さんも良くご存じではないでしょうか。しかし最近の研究により、道三とその父、長井新左衛門尉(ながいしんざえもんのじょう)の親子2代によって完成したものなのではないかという説が有力になっています。今回の「麒麟がくる」はこの説を採用して物語を進めています。今回の大河ドラマは以前、同じ大河ドラマの「太平記」を脚本した池端俊策氏がこのドラマの為に新たに脚本を書いたとのことですので、最近の研究結果も上手く活かされていくのではないかと期待しています。

道三を皆さんが一番最初に知った場面は「織田信長の正室・帰蝶(きちょう・又は濃姫)」の父親というものではないでしょうか。又は歴史好きの方ならば、司馬遼太郎氏の「国盗り物語」なのではないでしょうか。道三がその死後に活躍する織田信長や豊臣秀吉、徳川家康などといった人物ほど知名度がないのは、一つの地域(一つの国)内や近隣での活躍であったからだと思います。それは信長の父である織田信秀(おだのぶひで、以下「信秀」)も同様であると考えられます。しかし、道三も信秀も実はその地域(美濃国や尾張国)では突出した、優れた先見性を持った人物でありました。道三は今の岐阜市のまちづくりの基礎を行ったり、難攻不落と言われた山城(やまじろ)・稲葉山(岐阜)城を増改築し、堅固な城にしています。その遺徳を偲んで現在でも毎年4月上旬には「道三まつり」が開催されているほどです。また、信秀は近辺の港と商業都市(愛知県津島市)の権益と熱田神宮を支配し、経済力を蓄え経済流通拠点を押さえることで商業の発展が国を豊かにするという考えを持っていました。この2人の考え方を信長は引継ぎ、自身が稲葉山城主になった際には「楽市楽座(らくいちらくざ・規制を緩和し自由に市を開いたり、同業者組合の結成を許可すること)」を行ったり、家臣を城下に居住させ城下の整備を完成させています。

道三と信長にはエピソードが伝えられていますので、その一つをご紹介します。濃姫を信長が正室に迎えた後、道三が信長と富田の正徳寺(しょうとくじ 尾張国と美濃国の国境・愛知県一宮市富田)で会談した際のことです。信長は「尾張一のうつけ者」という評判があり、道三はそのうつけぶりを見ようと途中の民家に隠れて会談に向かっている信長の行列を覗き見ていました。道三の見た行列の信長は『髪はちゃせんに遊ばせ、諸肌脱ぎで瓜をかぶりつき、腰に瓢箪を七、八つぶら下げた、異様な風体であり、鉄砲500挺の鉄砲隊を引き連れていた』と言われています。しかし、この当時鉄砲500挺はありえない数値です。信長が中央(京)と繋がりをもって伴天連(ばてれん・南蛮)ルートで火薬(硝石・しょうせき)を充分に手に入れられるようになるのは、永禄(えいろく)年間(1558年~1570年)に入ってからで、具体的には1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討ち、足利義昭を奉じて京都へ上洛してからだと考えられますので、この正徳寺の会談は天文(てんぶん)22(1553)年に行われているので、鉄砲500挺はかなりの誇張であったと思われます。この誇張の原因は、後に長篠の戦い(1575年)で3000挺の鉄砲で武田勝頼(たけだかつより)を倒しているので、その影響であるのかと思われます。

会談にあたって道三は平服でしたが、控室で正装に着替え、居並ぶ道三の家臣の度肝を抜き、「是ぞ山城殿(道三は山城守に任官していた)にて御座候」と道三が紹介されると、信長は「であるか」と上から目線で答えました。この態度を見て道三の家臣は「やはり信長はうつけ者であったか」と感じたそうですが、道三は「わしの子らは、あのうつけの門外へ馬を繋ぐであろう」と言ったといいます。「非凡な者は非凡な者を理解できる」という話です。実際には道三の後を継いだ義龍(よしたつ)の代には信長は美濃国を制圧することは出来ず、孫の龍興(たつおき)の代にやっと稲葉山城を手に入れて、その名を「岐阜城」と改めました。

美濃国を治めた道三の最後は、皮肉にも自身の嫡男(後継ぎ)である義龍との戦いによって敗死しました。義龍には道三の旧主である土岐頼芸(ときよりあき)の子であるという噂があり、また道三が「美濃一国譲り状」を娘婿である信長に書いて渡していたと言われていましたので、疑心暗鬼になっていたと思います。道三は義龍を奮起させるために「美濃は信長の領土になるだろう」と語っていたことの真意を理解できず、逆恨みをして父子の縁を断っていました。この時代は親子間だけでなく、兄弟間、親戚間での争いが頻繁に起こっていました。信長も弟の信行と家督争いを行い、結果として信行を騙し討ちにしていますし、伊達政宗(だてまさむね)も同様に弟と争い、殺しています。また、武田晴信(信玄)も父である信虎(のぶとら)を追放して当主になったのですが、晩年には息子の義信(よしのぶ)が同じように信玄を追放しようとしましたが、機先を制して逆に義信を捕え、自害させています。徳川家康も息子の岡崎信康(おかざきのぶやす)と争っています。例を挙げたらキリが無いほどです。この原因は当主への権力の集中にあると思います。血を分けた親や子、兄弟と言えども当主にとっては家臣と同じで、その生殺与奪は思いのまま、全てが使い捨ての駒でしかなかったからであったと思います。

最後に、戦国時代の三英傑(さんえいけつ)を表した狂歌(落首)を皆さんはご存じでしょうか。「織田(※明智は入っていません)がつき、羽柴(豊臣)がこねし天下餅、座して食らうは徳の川」というものです。天下統一という事業をお餅にたとえ、信長や光秀が土台をつくり(ついて)、秀吉が形にして(こねし)、最後に家康が完成させる(座して食らう)という意味ですが、信長や光秀の基礎や土台は誰が作ったのかというと、実は道三や信秀ではないかと私は考えていますし、この二人の精神や業績・実績が無ければ、信長や光秀は後に天下に名を残す人物にはなれなかったのではないかと思います。そう考えると歴史や人は繋がっていると思われて感慨深くなります。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。