さて今回は、一旦の中断から再び放送が開始された大河ドラマ「麒麟がくる」から、主人公光秀が美濃国を追われ、近親者と供に落ち延びた先である越前国(福井県)一乗谷(いちじょうだに)城(館)の戦国大名、朝倉義景(あさくらよしかげ)とその一族について述べていきたいと思います。
朝倉氏の元々の出身地は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)で、本家から分家して越前に移ってきた一族でした。この越前に移った朝倉氏が越前国で勢力を拡大したのは、室町幕府の三管領の一つである斯波(しば)氏に仕えて、守護代(しゅごだい・斯波氏に代わって領地を直接治める家臣)として徐々に力を付けていきました。この朝倉氏の勢力が飛躍的に大きくなり、その名声が北陸及び畿内に響くようになるのは「応仁の乱(1467年)」です。この応仁の乱で守護家・斯波氏が家を二分したお家騒動を起こして勢力を弱めていく一方で、朝倉氏は地元の諸勢力を支配下に収め、家臣化して斯波氏を凌ぐようになっていました。応仁の乱の結果、越前国を統一し斯波氏に代わって越前国の守護になりました。この時の当主が義景の4代前の孝景(たかかげ・初代)でした。この孝景は分国法である「朝倉敏景(孝景)十七か条」を制定しています。自国領土内の家臣や領民を統制するために独自の法律を制定しています。その他の例としては、伊勢新九郎<いせしんくろう・北条早雲(ほうじょうそううん)>が制定した「早雲寺殿二十一か条」、今川氏親(いまがわうじちか)が制定した「今川仮名目録」、武田信玄が制定した「甲州法度之次第(信玄家法)」などがあります。今回はこの程度にしておきます。ただ注目すべきはこの「朝倉敏景十七か条」がどの分国法よりも早い段階で作られ、実行されていたものでした。
この分国法の内容の代表的なものは以下のものになります。
- 世襲制度を廃止し、実力主義を採用すべき。
- 町を警護する武士の士気低下や油断を戒める為、夜は武士の館などでの宴会や猿楽の上演を禁止する。
- 城郭や塁館等の建造の禁止。
- 家臣の一条谷への移住。
- 高価な名刀を一振り買うのであれば、百の槍(やり)を買うこと。
その他、京都の雅やかな暮らしを捨てて質素倹約を重んじること、年中3度の領内巡回や仏閣町屋巡検のことなど民生面にも配慮すべきことが規定され、更にこの分国法がこの後に作られるものの模範となっています。
さて、ここからは義景についても述べていきたいと思います。義景は1533(天文)年、第10代当主・孝景<二代目(朝倉敏景十七か条を制定した孝景とは異なります)>の長男として生まれました。16歳の時に父の孝景が死去した為、家督を継ぎました。当初は若年のため、1555年までは初代孝景の子・教景(のりかげ・宗滴(そうてき))が政務及び軍事を補佐していました。実はこの宗滴が亡くなってからは義景自身が政務を執るようになりましたが、徐々に朝倉一族の結束力が薄れていき、京都(公家)化していくようになっていきました。この傾向は他の戦国大名でも見られることで、周防国(山口県)以下6か国の守護を兼ね、中国地方最大の勢力を誇った大内(おおうち)氏も山口が「西の京都」と呼ばれ、多くの公家や商人が集まり栄華を極めていましたが、武断派の家臣(陶晴賢・すえはるかた)による下克上によって、大内義隆は殺害されたので、その後大内氏は滅亡し、最終的には陶氏を毛利元就(もうりもとなり)が倒して毛利氏が中国地方の覇者となります。武士が平安時代の平家のように公家に憧れたり、そうなろうとすると滅亡に向かっていくように思われますね。
ただ、朝倉氏の場合は宗滴が亡くなってから滅亡までの1573年までの18年間は越前国を完全に抑えていたので、安定・平和な時期でありました。この時期は各地の戦国大名はまずは近隣(最大でも国単位)を抑え、基礎体力をつけていこうという時期で日本・全国統一のような思想・思考はなかった時期でありました。この思想・思考が生まれるのは織田信長からであって、それまでは室町幕府がまだ継続していたので、幕府を支えて幕府の威光を使って畿内(京都周辺)を抑えることが天下統一とされてきました。つまり将軍に代わってその地位に就こう、将軍を倒して自らが将軍になろうという考えの大名は居なかったのです。その為、足利幕府第13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)を襲撃し、殺害した事件は衝撃的であったのです。
大河ドラマの中でも光秀や信長が言っている「大きな国」「戦さのない世」を目指すと行きつく先が小さな国(尾張国や美濃国、越前国などの1つの国内の統一)の中でなく、複数の国を纏めた大きな国を治めることを目指していくようになっていきました。この流れに義景は乗らなかったのか、乗れなかったのか、私は乗らなかったのではないかと考えています。そもそも義景に新たな将軍を立てて幕府を再興しよう、況しては幕府を倒そうといった考えが微塵もなく、今の状況を維持し次の世代に引き継いでいくのが最良で、朝倉氏が一乗谷で生き続けていけるという考えであり、これが世間一般の常識であったからだと思います。つまり信長や光秀の考えが異端であり、非常識であったのです。
現代から過去の歴史を俯瞰してみるとどの時代も停滞の後には変化を希求し、その変化に民衆は上手く乗っています。義景にもほんのちょっと先の時代の潮流を読めたり、館の奥深くに居ないで、頻繁に城下町を行き来するような性格があったら、もっと違った形で義景と朝倉氏の名は残っていたのではないかと考えます。義景自身は決してバカ殿ではなく、領内の治世は問題なく一定の評価を得られる領主であったと考えます。一例として、中継貿易に頼っていた貿易を大陸との直接貿易路を開くことによって利益を上げ、一乗谷の朝倉遺跡群からガラス工房の跡が発掘されていることなどから、新しい産業の開発にも力を入れていた形跡があります。また、越前に布教にきた宣教師ルイス・フロイスは越前国のことを「日本において最も高貴で主要な国の一つであり、五畿内より洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記しています。
義景自身は戦さよりも文芸を愛し、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んでいたようで、特に茶道には凝っていて多くの茶器が出土しています。織田・徳川連合軍と浅井氏と共同して戦った朝倉氏にとって天王山であったと思われる「姉川の戦い(1570年)」においても義景自身は一乗谷に引き籠って出陣していません。このことも戦さより文芸を重視したということを示しているように思えます。ただこの「姉川の戦い」当時、数年前に初めての男児を亡くし、更に寵愛した側室も失い、家臣の離反など様々な不幸が義景の身に降りかかり、政治(領内運営)に対する興味や関心が無くなっていて、芸事や新たな側室に執心し政治から逃避していた実情があることを考慮しても、戦国大名として生き馬の目を抜くという諺が合わない人物で、守勢タイプの人物であったのではないかと思います。
同じようなタイプの戦国大名は上記で挙げた大内氏の「大内義隆(おおうちよしたか)」、豊後(大分県)以下5ヶ国を治めた大友氏の「大友宗麟(おおともそうりん)」、駿河(静岡)以下2ヶ国を治めた今川氏の「今川義元(いまがわよしとも)」が該当すると思われます。この4人に共通するのは、代々の大名家に生まれ、誕生の時から将来が約束されていて(今川義元は異なる)、何不自由なく生きてきたので日々が戦いが起こり、命のやり取りや死が隣り合わせというギリギリな状況のなかで生きてこなかったことが影響している部分もあるのではないかと思います。私が儚いなと感じるのは、お伝えした4人の戦国大名の生まれてくる時期がもう少し前で、もう少し前に天寿を全うして亡くなるようであったら、後世の評価もだいぶ違ったのではないかと思うところですね。
朝倉氏と織田氏は意外なところで繋がっています。織田氏の発祥は越前国織田荘(福井県丹生郡越前町)の劔神社(別名・織田明神)の神官でした。また共に斯波氏に仕えて織田氏は斯波氏のもう一つの守護である尾張国で守護代から守護になっています。信長や義景がこの由縁を気にしたり、ある種の一体感を持ったかは分かりませんが、祖先は肩を並べて斯波氏に仕え、様々なことを一緒にやっていたのではないかとか私は考えてしまいます。元斯波氏家臣という一族の経歴が似ていたにも関わらず子孫が一族の興廃をかけて戦うというのも歴史の面白い部分でもありますね。