さて今回は、現在放送中の大河ドラマ「麒麟がくる」の中で今後、もしかしたら出てくるかもしれない人物である、千利休(せんのりきゅう)について述べていきたいと思います。千利休は「侘び茶(わびちゃ)」の大成者と呼ばれ、茶聖とも称された人物であります。また今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうきゅう)とともに「天下三宗匠」と称され、「利休七哲(りきゅうななてつ)」に代表される数多くの弟子を抱えていました。子孫は三千家(武者小路千家、表千家、裏千家)として現代にも続いています。茶道を嗜む方々は良くご存じかと思われます。
千利休は1522年和泉国(いずみのくに・大阪府)堺の魚問屋「(屋号」ととや」の田中与兵衛の長男として生まれました。幼名・与四郎と言い、法名を宗易(そうえき)と号しました。皆さんが広く知っている利休の名は正親町天皇(おおぎまちてんのう)から与えられた居士号です。(ここでは混乱を避ける為、「利休」と統一して述べていきます)
ここで少し、お茶の歴史について、述べていきたいと思います。
お茶は日本の歴史上、早い時期に中国から到来しています。804年に空海(くうかい・弘法大師)と最澄(さいちょう・伝教大師)が中国から持ち帰ったと言われています。その後、お茶を飲む習慣と製法は遣唐使によって広くもたらされ、当時の中国茶は現代の「烏龍茶」に似たものと考えられています。当時の日本人はお茶を嗜好品としてよりも薬としてとらえていて、必要量のみを煎じて飲んでいたと考えられます。貴族や僧の間では継続的に愛好されていたと考えられます。
その後、鎌倉新仏教の一つである臨済宗(りんざいしゅう)の開祖である栄西(えいさい)がお茶と共に「喫茶養生記(きっさようじょうき)」を鎌倉幕府3代将軍・実朝(さねとも)に献上し、武士階級にお茶が広まるきっかけとなりました。
鎌倉末期、後醍醐天皇などが宮廷で飲んだ水の産地を当てる闘水(とうすい)という遊戯から、闘茶(とうちゃ)という飲んだ茶の銘柄を当てる一種の博打が催され、建武の新政・南北朝・室町時代と庶民や武士階級に流行し(二条河原の落首)、余りの流行に武家法(建武式目)で禁じられるほどでありました。応仁の乱(1467年)頃までは、中国の茶器(唐物)がもてはやされ、大金を払って蒐集してこれを使って盛大な茶会を催すのが大名間で流行りました(「唐物数寄(からものすき)」と呼びます)。
これに対して室町幕府8代将軍・義政(よしまさ)の茶の師匠である村田珠光(むらたじゅこう<利休の師匠である武野紹鴎(たけのじょうおう)の師匠にあたります>)が茶会での博打や飲酒を禁止し、亭主と客との精神交流を重視する茶会の在り方と説きました。これが「侘び茶」の源流になっていきました。
話しを利休に戻します。利休は「天下三宗匠(てんかさんそうしょう)」の一人として、46歳の時に信長の茶頭(茶の湯の師匠)になりました。宗匠である三人には共通点があり、三人共が堺の豪商でした。1575年には戦いで使う鉄砲玉などの調達を行っていて、信長の天下静謐(天下統一)事業に茶道以外にも献身的に協力をしていました。その三宗匠の協力に対して信長は、家臣の中でも許された者しか茶会の開催を許さず、その許可を得ることは家臣にとって非常に名誉のあることと位置付けていきました。これによって、茶頭の威厳や尊厳が自然と高められ、茶人としての名声だけでなく、織田家臣団の中で政治・政策・経済的な意味でも重要な人物へと変わっていきました。
本能寺の変により信長が倒れた後は、秀吉の茶頭となりました。秀吉は信長以上に茶の湯に熱心な人物でした。その秀吉から茶室の造築を命じられ、茶席二畳、全体の広さをみても四畳半大という狭小の茶室「待庵(たいあん)」を完成させます。これは藁すきの草庵風の侘び茶の精神に通ずる趣のある茶室でした。その後、秀吉は関白になると権力の象徴として、通称「黄金の茶室」を利休に造らせます。「待庵」とは対極にある華美で派手なものでした。どんな思いで利休は黄金の茶室を造り、見ていたのでしょうか。侘び・寂びを至極のものと考える利休にとっては、屈辱でしかなかったのではないでしょうか。
両者の関係性の最も良好であった時期には、九州の大名・大友宗麟(おおともそうりん)が大坂城を訪ねた際に秀吉の弟・秀長から【公儀のことは私(秀長)に、内々のことは宗易(利休)に】と忠告を受けるほど、利休の立場は政治的にも強まっていました。政治相談役的な役割を担っていたことを示した言葉であると思います。1575年頃から堺を支配した会合衆(えごうしゅう)の一員になって、商業都市・堺に集まる人・物・金を掌握する権力者の一面も持ち合わせていました。
良好であった関係性が悪化していくのは、1番弟子(山上宗二・やまがみそうじ)が殺害されたり、茶の湯を政治の道具、権力の象徴として利用する秀吉に嫌気がさし、利休が政事(まつりごと)に苦言を呈したりすることが増え、徐々に両者に距離が出来てきたからだと思います。例として、秀吉が黒色が嫌いなのを知りながら、「黒は古き心なり」と黒楽茶碗を差し出したと言われます。また「唐入り」と呼ばれる中国大陸への出兵も利休や一部の大名は反対していましたが、石田三成などの側近(五奉行)は強引に実行してしまいました。
秀長が生きていた時は秀長が間を取り持っていましたが、秀長死後は両者のバランスが崩れて、最終的には邪魔になり蟄居から切腹を命じられました。その建前上の理由が、大徳寺の山門に木造の利休像を置いたことが罪とされました。(大徳寺は秀吉も参拝していたので、山門を潜って寺内に入るので、主君を上から見下ろすのが不敬とされた為です。)「利休七哲」と呼ばれる弟子たちや徳川家康、前田利家、秀吉の正室(北政所)から「詫びれば今回の件は許されるだろう」という助言も断り、謝罪することなく切腹しました。このことから両者には埋められないほどの深く、複合的な対立があったのではないかと思われます。しかし、武士でない商人である利休に「切腹」を命じた点を見ても秀吉の利休に対する思いをみてとれるのではないでしょうか。ただ、一時の感情(怒り)で切腹に追い込んでしまったことを秀吉は、後年大変後悔したとも言われています。秀長・利休という精神的な部分を支えていた二人を失った、その後の秀吉の行動や発言は冷静さを欠いたものとなっていきました。
利休は茶の湯を一つの文化として確立させ、さらに茶道という「形」を作り上げた人物でした。この茶道は現代にも受け継がれ、その精神は現代人にも通ずるものとなっています。私も茶道に少し興味があり、一度だけ鎌倉のとあるお寺でお茶をいただいたことがあるのですが、その作法やあの雰囲気には心が洗われる、ピンと張りつめた心地の良い時間を感じることができました。今度は本格的に習ってみたいと考えています。
最後に利休の言葉をお伝えして終わりたいと思います。利休は自著を残していないのですが、1番弟子の宗二の著書の中で「茶湯者覚悟十躰」に【路地へ入るより出づるまで、一期に一度の会のやうに、亭主を敬ひ畏べし】という一文を残しています。また、近年では江戸時代の偽書であるとの説がある利休の秘伝書とされてきた「南方録」にも【一座一會の心、只この火相・湯相のみなり】として「一座一会(一期一会)」の大切さを伝えていました。
茶会に臨む際には、その機会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の出会いであるということを心得て、亭主・客ともに互いに誠意を尽くす心構えを意味する。茶会に限らず、広く「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ない、たった一度きりのものです。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」という含意で用いられ、さらに「これからも何度でも会うことはあるだろうが、もしかしたら二度とは会えないかもしれないという覚悟で人には接しなさい」と戒める言葉として、一生に一度だけの機会そのものを指す語としても用いられています。