太宰府天満宮
皆さん、こんにちは。新型コロナウィルスの感染拡大にも一定の歯止めがされ、ワクチン接種による効果に期待をしていますが、ウィルス自体を完全に駆逐することは難しいと思いますので、インフルエンザ同様に上手く付き合っていけるようにしていかなければならないと考えています。

今回は、受験生のお子様がいらっしゃる方も居るかと思いますので、「学問の神様」と呼ばれています「菅原道真(すがわらみちざね 以下「道真」)」について述べていきたいと思います。一般的に歴史の教科書で道真が登場するのは、894年に「遣唐使の廃止」だと思います。この後、道真が教科書に再び登場するのは謀反の疑いにより、大宰府へ左遷されて亡くなったという程度かと思います。今回のコラムでは詳しくお伝えするので、意外であり皆さんが思っている道真像を壊してしまうかもしれないですが、お付き合いの程宜しくお願いします。

道真は平安時代の承和12(845)年文章博士(もんじょうはかせ <大学寮に属して詩文と歴史とを教授した教官のこと>)・菅原是善(すがわらこれよし)の3男として生まれました。幼少期より詩歌の才を見せ、11歳で初めて漢詩を詠んだと言われています。18歳で文章生(もんじょうせい)となり、その中から2名が選ばれる文章得業生(もんじょうとくぎょうせい・特待生扱い)となり、正六位下に叙任されています。さらに現代の国家公務員採用試験(国家総合職)にあたる「官吏(かんり)登用試験」に合格し、更に官位を上げています。当時の朝廷の第一人者・関白(かんぱく)・藤原基経(ふじわらもとつね)も道真の文才を評価した一人であり、父の是善を差しおいて度々代筆を道真に依頼していました。父の死後は私塾(菅家廊下)を主宰し、朝廷における文人社会の中心的な存在となりました。

そんな道真が国家の政治に関わってくるのは仁和4(888)年の阿衡(あこう)事件と呼ばれる事件を上手く処理をした結果、宇多(うだ)天皇が側近として道真を蔵人頭(くろうどのとう)に登用したためです。蔵人頭は天皇の近臣中の近臣との言える職で、最初道真はこの職に就くことを固辞していましたが、宇多天皇はそれを許しませんでした。これには宇多天皇の一つの思惑があって、藤原氏一族が政治の中枢で権力を握ることで天皇が自身の意図した政治(天皇親政)を行えなくなるのを恐れて、対抗馬として道真を使おうと考えていた為でもありました。その証左としてこの後道真の官位はトントン拍子で上がっていきます。

そんな中で寛平4(894)年に遣唐大使に任じられますが、唐国の混乱を踏まえて遣使についての建議書を提出したのが道真でした。その後、遣使はされずに延喜7(907)年唐国が滅亡し、遣唐使の歴史は幕を下ろしました。その後も官位は上がり続け、宇多天皇が譲位し、 息子の醍醐(だいご)天皇が即位する際には、引き続き道真を重用するように強く求めていますし、三女を宇多天皇の子である斉世(ときよ)親王の妃として、天皇家との結びつき、特に宇多天皇との結びつきをより強固なものにしていきました。 

昌泰2(899)年には右大臣に昇進して左大臣の藤原時平(ふじわらときひら・基経の子)と官位で並びました。この時も道真は家格が低いこと、自身の家が儒家であること、出世して誹謗中傷が増えたことなどから辞退したいと申し出ていますが、却下されています。しかし、絶頂期はそう長く続きませんでした。道真の出世を妬む者が「宇多上皇を欺き惑わした」「醍醐天皇を廃位して娘婿の斉世親王を皇位に就けようと謀った」として大宰府に左遷されました。長男を初め、子供4人が流刑に処された。道真の後裔である菅原陳経(すがわらのぶつね)が「時平の讒言(ざんげん)」として以降、現在でもこの見解が一般的でありますが、実はそうではないという研究も進んでいる。

道真と時平の関係は険悪、対立的であったとされていますが、実際はそれぞれ父の代から関りが深く、度々詩や贈り物を交わす交友関係にあり、様々な代筆を道真に依頼したり、父である基経同様に、時平も文章家としての道真を高く評価していました。道真の失脚は急激な出世に反感を持っていた多くの貴族層の総意や同意によってつくられたものであったという可能性もあります。また一方で、道真自身も権力志向であった可能性もあります。その証左として藤原氏同様に自身の娘を天皇家に妃として入内させていることは、その娘が産んだ子(親王)が天皇に即位し、天皇の外祖父として権力を握りたかったのかもしれませんが、真相は藪の中ですね。

大宰府に左遷されて、道真は2年後に失意のうちに亡くなります。都から大宰府に移る際に屋敷内に植えられた梅の木に対して詠った詩が今も誰もが一度は聞いたことのある詩です。

『東風(こち)吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな』

この梅が都から大宰府の道真の住む屋敷の庭に飛んできたという「飛梅伝説」が存在します。また、同様に松の木も京から飛び立ったが、須磨(兵庫県神戸市須磨)で力尽きて落ちたという「菅公の飛松」の伝説もあります。

最後に道真が学問の神様になった経緯を述べていきたいと思います。実は道真は死後「怨霊」として恐れられていました。何故かといえば左遷させられ、失意のうちに亡くなったことは先にも述べましたが、死後の5年後に藤原菅根(ふじわらすがね)という貴族が雷にあたって亡くなりました。菅根は道真の弟子であったのですが、師匠(道真)の失脚に加担した人物の一人でした。さらに時平が39歳の若さで急死し、この頃から洪水、長雨、干ばつ、伝染病など変異が毎年のように続くようになり、「道真が怨霊となり、祟りをなしているのではないか」と噂されるようになったのでした。

延喜23(923)年には醍醐天皇の皇太子である保明(やすあきら)親王が21歳の若さで亡くなり、保明親王が時平の娘が産んだ子であった為、醍醐天皇も本気で道真の祟りではないかと考え、周囲の勧めもあり道真の大宰府行き(左遷)を命じた勅書を破棄し、その地位を右大臣に復し正二位を追贈しました。  延長8(930)年に宮中清涼殿(せいりょうでん)に落雷があり、公家4人が焼死しました。この出来事の衝撃により醍醐天皇は譲位、死去したとも言われています。天慶5(942)年朝廷は、平安京内に北野天満宮を創建することを決めます。ちょうどこの頃平将門や藤原純友の乱(承平天慶の乱・じょうへいてんぎょう)が続発していて、都の貴族たちが不安に苛まれている時期でした。この北野天満宮の管理を学問の家柄である菅原氏一族に任せ、朝廷もこの神社を保護して勅祭の社にしたこともあり、繁栄するようになりました。道真が生前、学問に優れていたことから、雷神という怨霊から詩文の神と意識されるようになり、鎌倉時代や室町時代になると北野天満宮で歌合せや連歌の会など文化的な行事が開催され、人々も学問や芸能の進展を願ってこの社に詣でるようになりました。因みに北野天満宮のほか、太宰府天満宮、大阪天満宮、亀戸天神、湯島天神、防府天満宮など道真を祀る神社は12,000社にもなります。人々が雷神という祟る怨霊を神社に祀ることによって、学問の神という福の神へ変化させたのでした。