さて今回は今までとは趣向を変えて、皆さんも時代劇の戦いのシーン、特に戦国時代の戦いで全身赤い兜や鎧を着た集団が出てくるのを観たことがあるかと思います。そのことについて述べていきたいと考えています。
全身「赤」の編成を「赤備え(あかぞなえ)」と言います。この編成で代表的なものは、「武田の赤備え」「井伊の赤備え」「真田の赤備え」の3つです。堺雅人さん主演の大河ドラマ「真田丸」でも大坂冬・夏の陣での真田信繁(幸村)の真田軍が「赤備え」であったのを覚えていることと思います。何故「赤備え」なのかについては後程お伝えします。
ではそもそも何故「赤」だったのか、他にも黒色や黄色などの色で統一された色備えもあったのですが、「赤」にした理由は当時の「赤色」が高級品であったこと。また戦場でも目立つことで特に武勇に秀でた精鋭部隊が着るようになりました。また家中で武勇に優れた武将が持っていたとされる「朱槍(しゅやり)」も柄の部分が朱色の綺麗で派手な槍でした。これは皆さんもご存じの前田慶次郎利益(まえだけいじろうとします)が持っていたと言われています。戦場では目立つことは標的にされやすく、生き残る為には武勇に優れていないと駄目だったようです。
この「赤備え」を最初に用いた武将が甲斐武田家に仕えた「武田二十四将」の一人「飯富兵部虎昌(おぶひょうぶとらまさ)、以下「飯富」」という武将です。飯富は武田晴信(以下、「信玄」)の家老として、後世に「甲山の猛虎(こうざんのもうこ)」と謳われた武将です。騎兵のみで構成される騎馬部隊として編制されました。現代風に言えば「切り込み部隊」ですね。ちなみに騎馬隊の馬は現代のサラブレットのような馬ではなく、もっと小柄でずんぐりむっくりした分類的には「ポニー」と呼ばれる馬種でした。戦いのシーンで、サラブレットが走るのとポニーが走るのではイメージも迫力もだいぶ変わりますね。
飯富率いる「武田の赤備え」は信玄が行う戦いには常に先陣として、最前線で戦って勝利に貢献していきました。その噂が各地に広がることで必然的に「武田の赤備え」は戦国最強と呼ばれるようになっていきました。しかし、育ての親である大将の飯富は武田家の家老であり、信玄の子である義信(よしのぶ)の後見人でもあったのです。この義信が信玄を排除しようと謀反(通称「義信事件」※未然に発覚して逆に鎮圧される)を企てたのですが、その謀反に連座して切腹させられてしまいました。この事件はいわば因果応報でした。信玄自身も父である信虎(のぶとら)を追放して、武田家を継いだ過去があったからです。何故未然に発覚したのかは飯富自身がこの謀反を弟(甥?)である山県三郎兵衛昌景(やまがたさぶろうひょうえまさかげ 以下「山県」)に話して、失敗になるようにしたからでした。
飯富の後を継いで「武田の赤備え」を率いたのは弟(甥?)である山県でした。この山県も飯富同様に「武田二十四将」の一人で、更に「武田四天王の一人」に数えられています。「武田の赤備え」を更に最強軍団としたのはこの山県で、信玄が家康と戦った「三方ヶ原戦」で完膚なきまでに家康が敗けたこの戦いで、家康は信玄の強さを改めて認識したと同時に「武田の赤備え」の強さと恐怖を肌で感じたのではないかと思います。その証拠にこの敗戦を戒めとして「徳川家康三方ヶ原戦役画像」(別名「しかめ像」)を描かせています。
しかし、戦国最強を誇った「武田の赤備え」も「長篠戦」で信長・家康が率いた連合軍の鉄砲隊に倒されます。この戦いでは「武田の赤備え」だけでなく、信玄に仕え武田家の屋台骨を支えてきた多くの名将も亡くなりました。しかし、武田家がこれで滅んだ訳ではなく、滅んだのは7年後なのです。信玄の後を継いだ、勝頼(かつより)が愚鈍な大将であった為に武田家は滅んだと言われていますが、実際に信玄と比較してしまったら劣るかも知れませんが、実は信玄に負けず劣らず立派な武将であったのではないかと私は考えていまします。「長篠戦」の後7年の間に信玄時代よりも勢力範囲を広げ、武田家史上最も大きな版図(領地)になっていました。昌景は武将としての戦場での活躍ばかりでなく、武田家を代表して外交も行っていました。所謂「取次役」として周囲の大名家との折衝を行っていました。
武田家滅亡後の本能寺の変による武田遺領争奪戦(天正壬午の乱)を経て、甲斐国(山梨県)は家康によって平定されました。その際に武田遺臣を配属されたのは譜代筆頭家の当主「井伊直政(いいなおまさ 以下「直政」)」でした。共に「武田赤備え」を支えた山県家旧臣も直政に家臣として付けられたので、赤備えを継承した形になりました。その後「井伊の赤備え」と呼ばれて、秀吉と争った小牧・長久手戦いでは先鋒で奮戦し、「井伊の赤鬼」と恐れらました。常に先陣を駆けた直政は「関ケ原の戦」で受けた鉄砲傷がもとで若くして亡くなりますが、幕末に至るまで井伊家(彦根藩)の軍装は足軽まで全て赤備えを持って基本とされました。「大坂夏・冬の陣」の折、家康が軍装の煌びやかな「井伊の赤備え」を見て平和な時代で堕落した赤備えを嘆きました。その中で使い古された具足(鎧兜)を身に付けている者達を発見し、「あの者らは甲州からの家臣であろう」と言い、確認が取れると「あれこそが本来の赤備え」と言ったといいます。
「大坂夏・冬の陣」では二つの「赤備え」が戦場で相まみえます。「井伊の赤備え」と「真田の赤備え」です。直接的な戦闘はなかったようですが、「真田信繁(さなだのぶしげ 別名幸村(ゆきむら) 以下「幸村」)」が率いた真田軍は家康本陣まで襲い掛かり、命からがら家康は遁走したと言われています。
では最初の方でお伝えした何故幸村が「赤備え」であったのかについて私なりの見解も踏まえてお伝えします。幾つかの理由があるのですが、まず初めに真田家は武田家の家臣であった点が挙げられます。信玄時代に幸村の祖父である幸隆(ゆきたか)が仕えます。幸隆も武田二十四将の一人で、勇将というよりは権謀術数を駆使して戦いに勝つ策略家であったと言われています。幸隆の三男であった昌幸(まさゆき)が幸村の父になります。
第二の理由は父の昌幸が家康(徳川家)にとって天敵であったということが挙げられます。実は徳川家は真田家との戦いで2度敗けています。(第一次・第二次上田合戦)直接家康と戦っているわけではないのですが、徳川家の家臣にとって真田家との戦うことは過去の苦い敗戦を思い出させるのに充分な印象を与えたと思います。
第三の理由は幸村自身がこの「大坂夏・冬の陣」で自身と真田家の存在意義を天下に示したかった、そもそもこの戦いで勝とうとは思っていなかったように思えます。敗けるのが分かっていても戦う。武将としての意地やプライドが戦いに駆り立て、「赤備え」の編成にさせ、信玄との「三方ヶ原戦い」以来と言われる二度目の本陣崩しを成し遂げ、「真田日本一の兵 古よりの物語にもこれなき由」(薩摩旧記雑録)に賞賛される活躍をしたのでしいた。 今回は「赤備え」という点に注目してお伝えしましたが、時代を超えた共通の考え方や生き方は根本の部分が分かるとそれが現代にも通じていたり、何かと役に立つことであったりするものであったりします。私はそれらを知って、当時の人物と繋がっていると感じられるのが凄く面白いですし、ワクワクします。また「真田の赤備え」を率いた幸村は敗けると分かっていて「大坂夏・冬の陣」に参戦しています。これは以前にもお伝えした武士としての生き様である「滅びの美学」であり、「死に場所」を幸村が求めていたのだと思います。幸村なりの「滅びの美学」の一端に家康を嘗て心胆寒からしめた「武田の赤備え」と2度も苦杯を嘗めた「真田の兵法」で乾坤一擲の戦をしようと考えたのだと思います。これが現代の私たちの琴線に触れるから、いつまでも忘れずにいるのかもしれないですね。