さて、今回は前回から「数字」に関連する歴史的な出来事やそれに関わる人物について述べましたが、今回は「2」に関わる人物についてお伝えしていきたいと考えています。「2」に関連する出来事や人物で私が一番最初に思いつくのは「二代目」「組織のNo2」です。現在でも2代目社長や組織のNo2についてはきついお叱りや叱責、または称賛など様々な点で問題になっていますよね。今回は数人の二代目について述べていきたいと思います。多分にマニアックな内容になってしまうと思いますが、宜しくお願いします。
今回取り上げる二代目は「北条義時(ほうじょうよしとき)、以下「義時」」、「徳川秀忠(とくがわひでただ)、以下「秀忠」」、「岩崎弥之助(いわさきやのすけ)、以下「弥之助」、「澁澤篤二(しぶさわとくじ)、以下「篤二」」などになります。
まず初めは、来年の大河ドラマの主人公となる「義時」についてです。歴史の授業でもこの人物については一瞬現れるかそうでないかといった感じだと思います。出てくる部分は「承久の乱(1221年)」の際に、後鳥羽上皇が発した「北条義時追討の院宣(いんぜん)」で名前が出てくるか、北条氏の系図の中くらいかと思います。歴史に詳しい方でしたら、三代将軍・実朝(さねとも)の暗殺した黒幕であったと言われている人物、または朝敵として朝廷と戦い、勝利して後鳥羽上皇などの天皇や上皇に厳しい態度で罰した人物、北条政子(ほうじょうまさこ)の弟というくらいかと思います。
初代執権である父、北条時政(ほうじょうときまさ)も政子の父、頼朝の岳父というくらいで目立たない存在ではあり、歴史上特出すべき人物ではなかったかと思います。ただかなりの野心家であったことは、頼朝死後の数々の事件などが示していると思います。
一方、義時は頼朝から大変信頼されて、寝所の警備を任され、頼朝の個人的な側近・親衛隊と呼ばれる「家の子」に選ばれていました。その中でも義時は「家子の専一」とされて、片時も頼朝のそばを離れない、側近中の側近でありました。おそらく御家人の頼朝への取次は全て義時を通して行われていたのではないと思います。側近中の側近が力を持つのはいつの時代もあって、後年では江戸時代の側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)や田沼意次(たぬまおきつぐ)などが挙げられます。
頼朝の信頼を一身に受けた義時ですが、父・時政とは異なり余り野心は持たずに、協調性を第一に考えていたようです。その一例として、承久の乱後の義時の影響力は天皇の位さえも自由に変えることが出来るほどのものでしたので、「将軍」にもなれたはずです。しかし「将軍」にはならなかった。それは何故なのか。北条氏は他の御家人たちと同列の「頼朝の家臣」であることを念頭においていたと思います。当然、朝廷から官位も望みのままであったと思いますが、一位から五位まであるのに「四位止まり」でした。
ただ京の摂関家からの執権(北条氏)への書状は、一位の者から四位の者への直筆の書状はあり得ないことでしたが、北条氏は別格でした。つまり直筆の書状が届いていました。「四位止まり」であったのではなく、敢えて「四位」以上にはいかないという意図があったのです。しかしこれは北条氏のアピールであると私は思います。北条氏は御家人の世論に敏感に反応していたように思えます。この地位を築くために強引な手段を使ってかつての同僚を滅ぼしてきましたが、あくまでの「御家人の代表」として執権の地位に就き、政治を行っている。それも御家人の為の政治を行っていると他の御家人に思わせるようにしていたのだと思います。実際にこの義時の考え方は自身の孫である六代執権・時頼の時に完成形となります。義時の時代にはまだまだ「頼朝」というカリスマを汚してはならない風潮が残っていて、義時はそれを最大限に活用して北条氏を御家人屈指の一族に成長させていったのだと思います。
続いて江戸幕府二代将軍「秀忠」についてですが、この人は「義時」と置かれた立場や状況は全く違っています。秀忠が成人した時には父・家康は「海道一の弓取り」と呼ばれ、その名声は日本全国に知れ渡り、家臣数や領土の広さも全国トップクラスでした。義時のように父と苦楽を共にし、現在の地位を築いたのとは異なっていました。しかし秀忠の賢い、凄いところは家康を超えようとは考えなかったところだと思います。家康を神(東照大権現)にすることでその行動や言動を神格化し、犯してはならない不文律として、自身はその威光を守りながら幕府の土台を家康期の健在の家臣を使って固めていく一方で、自身の家臣団と次世代の家臣団を育成していった繋ぎ役に徹していきました。下手に初代を超えようと考えてしまうと初代の家臣団に反対され、蚊帳の外に追い出されたりしてしまいます。その例が鎌倉幕府二代将軍・頼家(よりいえ)かと思います。
江戸幕府が260年続いた礎はこの秀忠の力によるものだと思われます。表面的には次代の三代将軍・家光期に幕藩体制や鎖国が完成したので、家光期が注目されますが実は三代目で花開くための土台を作った二代目が重要で、この二代目がしっかりしていればその体制は長続きするのであると歴史が示しています。この二代目の重要性は、室町幕府にも言えます。皆さんは室町幕府二代将軍の名前を知っていますか。「足利義詮(あしかがよしあきら 以下「義詮」)」と言いますが、ご存じない方が多いのではないでしょうか。歴史の授業でも教科書でも出てこないことがほとんどで、足利氏系図に名前が出ている程度だからです。実はこの義詮はそれまで尊氏晩年期の一族内の内乱で幕府に反抗して南朝側についていた勢力と講和を結び、南朝勢力の弱体化を行い、更に管領などの幕府内の政治態勢を作っています。これはその後の室町幕府が継承する政治機構であり、次代の義満期に幕府は最盛期を迎えるのですが、その元になっています。まさに江戸幕府と全く同じなんです。
また秀忠は次代の家光の為に弟や息子、婿に対しても厳しく対応しています。弟の松平忠輝(まつだいらただてる)や息子の徳川忠長(とくがわただなが)、娘婿であり甥の松平忠直(まつだいらただなお)と言った一族を改易や配流という厳しい処分を行い、家光がやりやすいように整えてから亡くなっています。
最後に昨日終了した今年の大河ドラマ「青天を衝け」から、二人の二代目について述べていきたいます。その二人とは主人公・澁澤栄一の息子・篤二と岩崎彌太郎の弟・弥之助です。篤二については、ドラマの中でもかなり取り上げていましたので、ご覧になった方は分かっていると思いますが、実際に父親である栄一の偉大さに負けてしまい、逃げてしまった。栄一とは違う分野(芸事)で認めて貰いたかったのではないかと思います。その流れは後継者となった孫の敬三(けいぞう)にも現れていて、篤二を廃嫡した後、孫の敬三に対して羽織袴(正装)を着て、正座をして頭を下げた映像がドラマの中でもあったのを覚えていらっしゃる方もいるかと思いますが、本当は民族学の道に進みたかった敬三は、祖父の懇願によりその道を一旦諦めて、経済の道に進んでいます。しかし趣味として研究を続け、後年その道でも成功しています。篤二も多趣味の人で義太夫、常磐津、清元、小唄、謡曲、写真、記録映画、乗馬、日本画、ハンティング、犬の飼育など多岐に渡っていました。敬三はその血を受け継いでいたようでした。
一方、弥之助は兄・彌太郎について共に事業拡大に力を注いでいたので、篤二や敬三のようなことはなく、彌太郎の死後も事業の拡大、多角化や充実を第一に考え、尽力していました。三菱本体から海運部門(日本郵船)を切り離し、鉱山開発や造船建造、地所、金融、倉庫など今の三菱グループの土台となる会社を設立し、現在の形があるのは創業者の彌太郎の力も当然必要でありましたが、その事業を引き継ぎ継続した弥之助によるものが大きかったと思います。 繰り返しになりますが、やはり企業にとって二代目は重要であることが分かります。創業者は事業を起こすくらいですから、バイタリティに富みその決断力や実行力は誰よりもあったはずです。しかしその後を継ぐ者に創業者と同じ能力が備わっているかは分からないのが実情です。それ故二代目が重要であり、その二代目の能力如何で長く続くかが決まっていくように思えてしまいます。