修善寺源頼家の墓
皆さん、こんにちは。3回目のワクチン接種が始まり、一時期急激な感染者数の増加が見られましたが、3回目が始まるとその数も徐々に減りつつあります。しかしここでの油断は禁物です。皆さんの会社が3月決算の会社ならば、ここから3月末に向かってとても大事な時期であると思います。大きな意味で自身の体調管理が家族や会社を守ることになりますので、自身の体調管理に充分留意していくようにしましょう。

さて今回も懲りずに「2」に纏わる人物や事件などについて述べていきたいと思います。現在絶賛放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の「2代目鎌倉殿」である「源頼家(みなもとのよりいえ)、以下<頼家>」についてです。

頼家は1182年、頼朝と北条政子(ほうじょうまさこ、以下<政子>)の嫡男として鎌倉比企ヶ谷の比企能員(ひきよしかず、以下<能員>)の屋敷で生まれました。伊豆で平家打倒に兵を挙げて、鎌倉に入ってから3年目の待望の後継者で、周囲(御家人)の祝福を一身に受けての誕生でした。父頼朝36歳、政子30歳でした。

政子が頼家を懐妊した際、頼朝は安産祈祷のため鶴岡八幡宮若宮大路の整備として、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかづら)を作り、頼朝が自ら監督を行いました。この段葛は鎌倉に来られたことがある方ならば歩いたことがあるかと思います。今も当時の雰囲気を感じられる遺構ですね。

頼家の乳母父には頼朝の乳母であった比企の尼の養子である能員が選ばれ、乳母には梶原景時(かじわらかげとき、以下<景時>)の妻、比企の尼の三女(平賀義信(ひらがよしのぶ)の妻)、能員の妻など比企一族から選ばれました。これが後々の政争に繋がっていくことはこの時点では誰も分かりませんでしたね。因みに頼家の政治的後見人には景時と能員が就きました。いずれも頼朝から指名されてその役目に就いていました。頼朝は意図的に頼家と北条一族を切り離しているように思えますし、比企一族に対して絶大な信頼を置いていたように思えます。また景時は頼朝の側近でした。

頼家の誕生以降、頼朝の勢力は強大になっていきます。かつて頼家にとっては祖父である源義朝(みなもとのよしとも 以下「義朝」)が本拠を構えた鎌倉を本拠地として、平家との戦いは弟の源範頼(みなもとののりより 以下「範頼」)や源義経(みなもとのよしつね 以下「義経」)と後の御家人と呼ばれる坂東武者に任せていました。富士川の戦い、一の谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い等に頼朝は一切戦場に立っていない点から考えると頼朝は戦が不得手だったように思いますね。実際に初陣であった平治の乱も義朝のそばにいただけであったようです。一方で義経は自ら先頭に立って戦う武将でありましたし、範頼も先頭に立つようなタイプではなかったようですが、戦場には立っていました。また自身が戦場に行かなくても有能な坂東武者が多数居たのもその理由かも知れません。

頼朝は自身の地位の維持のために、多くの有力武将を暗殺や討伐しています。皆さんも頼朝が源氏の嫡流であるといったことを教科書や小説の中で見たり、聞いたりしたことがあるかも知れませんが、そう言われたのは頼朝が鎌倉幕府を作ったからであって、幕府成立前は誰が源氏の嫡流かは分からず、それぞれが嫡流と称していました。その為、常陸の佐竹氏や甲斐の武田氏、従弟の源義仲(みなもとのよしなか)、弟の範頼や義経などの源氏一族だけでなく、上総介広常(かずさのすけひろつね)も暗殺しています。疑心暗鬼になりやすい性格だったのか、臆病者であったのかは正確には分かりません。一方で頼朝が幕府を開けた最大の要因はその性格と稀代の「人たらし」だったからだと私は思っています。大河ドラマでも有力な武将が味方に馳せ参じると「お前が頼りだ」と言って抱きしめていましたし、自身の直属の親衛隊のような家臣がほとんど居なかったので、こうするしかなかったのかも知れませんね。因みに「人たらし」と言えば豊臣秀吉を思い出す方も居るかと思いますが、二人にはこんなエピソードがあります。

秀吉は、小田原攻めを終え天下統一を遂げた後、ある場所に足を運びました。それは、鶴岡八幡宮境内社にある白旗神社です。目的は、頼朝に会う為です。厳密には、頼朝の像になります。その頼朝像を前にして、秀吉は次のような言葉を語りかけています。

「我と御身は共に微小の身から天下を平らげた。しかし御身は天皇の後胤であり、父祖は関東を従えていた。故に流人の身から挙兵しても多く者が従った。我は氏も系図も無いが天下を取った。御身より我の勝ちなり。しかし御身と我は天下友達なり。」

簡単にまとめると、「僕たちは、天下取ったけど、庶民から天下取った僕(秀吉)の方がすごいでしょ。でも君とは天下取ったもの同士分かち合えるね。」といった具合です。そう言うと、頼朝像の背中をポンポン叩いたとされています。

ただこの秀吉の言葉に私は頷けない点があります。秀吉は信長の家臣として、信長の命令によって徐々に力をつけていき、ある意味で織田家の看板で戦いなどをしていたということになります。逆に頼朝は自身が旗頭として戦わなければならなかったという点からすると秀吉よりも大変であったようにも考えられますし、頼朝の前に集まった坂東武者のほとんどが父、義朝の家臣であって、頼朝の家臣ではなく協力者であったので、頼朝が義朝ほどのトップとしての力や能力が無いと判断されたら裏切られていたように思います。それが頼朝自身分かっていたから自身が裏切られる前に先手をとって暗殺などの粛清を見せしめとして行っていたのかも知れないと思います。

話しが少し頼朝によってしまったのですが、頼朝にとって頼家は大事な嫡男であり、期待も大きかったことと思います。そのエピソードとして、幕府成立後の1193年の富士の巻狩りで、12歳になった頼家が初めて鹿を射ると、頼朝は喜んで政子に報告の使いを送ったのですが、政子は武将の嫡男なら当たり前であると使者を追い返したと言われています。この件については頼家が比企氏と関係が深かったために嫌ったという説と、この鹿狩りが神によって彼が頼朝の後継者と見なされたことを人々に認めさせる効果を持ち、その為に頼朝が殊の外喜んだのですが、それを政子が理解できなかった為という説の二つの解釈がありますが、私は前者ではないかと思っています。

何故なら先程もお伝えしたように頼家の周囲には比企一族等が居ますが、その弟である後の三代将軍・実朝(さねとも)の周囲には北条一族が固めていました。つまり頼家が頼朝のようなカリスマ性を持ち、立派な後継者として、坂東武者が認める二代目になってしまっては実家の北条氏が頼朝後の幕府を思うように動かせなくなるからです。因みに頼家が鹿を仕留めたこの巻狩りで、三大仇討の一つ「曾我兄弟の仇討」が起こっています。

1195年、頼朝は政子や頼家、更に長女である大姫を伴って京へ上洛します。この時頼家は参内して、都で頼朝の後継者として披露されました。生まれながらの「鎌倉殿」である頼家は古今例を見ないほど武芸の達人として成長したと言われています。これは北条氏にとって良くないことであり、このまま頼朝の下で頼家が順調に成長し、誰もが認める「鎌倉殿」になってしまってはいけないと北条氏は考えたのでしょうか。1199年その絶妙なタイミングで頼朝が急死します。相模川に架かる橋の落成式の帰りに落馬して、それが原因で亡くなったと言われていますが、これは頼朝の死から13年度に鎌倉幕府唯一の公式文書である『吾妻鑑』に記載された内容です。

実はこの『吾妻鏡』ですが、1196年から1199年の記録が抜けていて、更にこの文書の作成主体者は北条氏です。勘の良い方ならば気づいたはずです。そうです、頼朝の死は隠匿されたのです。北条氏にとって良くないことは書き換える、もしくは消す。後世の秀吉と同じです。自分たちを正当化するために北条氏は頼朝の死を抹消してしまったのです。これはつまり暗殺されたのだと思われます。この後の北条氏の動きからも分かりますが、頼家が家督を継いで3か月後には頼家が若いという理由で有力御家人による【13人の合議制】がしかれて、頼家から訴訟の裁断権を剥奪し、その半年後には頼朝の側近として重用され、頼家の政治後見人であった景時を失脚させて、一族もろとも滅亡させています。これは景時が頼朝時代に側近としてかなり強引なやり方で様々なことをしてきたのを知っていた御家人が景時排斥を求めた為ではありますが、頼家が守り切れなかったからでした。実際に当時の書籍である「愚管抄」には景時を死なせたことは頼家の失策であったと評されています。

自身の片腕を失った頼家は反撃に出ています。景時の死から3年後に弟・実朝の乳母の夫であり、さらに義経の同母兄である叔父の阿野全成(あのぜんじょう 以下「全成」)を謀反人の咎で逮捕し、殺害しています。さらに乳母である阿波局も逮捕しようとしましたが、姉である母・政子に引き渡しを拒否されています。おそらくかなりの高い確率で父・頼朝の死の真相を頼家は知っていて、確実に頼家にとって北条氏は倒すべき相手になっているのが見て取れます。逆に北条氏にとっても頼家は一族にとって危険な者と改めて認識されてしまったのかも知れません。北条氏の更なる反撃は直ぐに起こりました

全成の事件の前後(3月頃)から、頼家が体調を崩していて事件の2ヵ月後に急病(7月半ば)にかかり、危篤状態(8月末)に陥りました。その際まだ存命にも関わらず、鎌倉から「9月1日」に頼家が病死したので、千幡(後の実朝)が跡を継いだ」との報告が9月7日の早朝に届き、千幡の征夷大将軍任命が要請されたことが、藤原定家の日記『明月記』の他、複数の京都側の記録で確認されています。この使者を送ったのは事情に詳しい北条氏で間違いなく、この体調不良も北条氏が何らかの指示をして毒を盛ったりしていたのではないかと余りにもタイミングが良すぎる点だけを見ても推察できます。

また、使者が鎌倉を発った前後と思われる9月2日、鎌倉では頼家の最大の支持者であり、乳母父で嫡男・一幡の外祖父である能員が北条時政によって誅殺され、比企一族が滅亡しています。実はこの比企一族の滅亡を頼家は病床にいたため、少々病状が回復した際に事件の詳細を知ります。当然憤慨して時政討伐を命じますが、従う者はなく逆に鎌倉殿の地位を追われてしまいます。この結果、時政が幕府の実権を握ることになりました。結果から見ても時政がすべてを仕組んで動いていたように思えてなりません。

【以下は当時の記録の解釈内容になります。】
『吾妻鏡』によると、「頼家が重病のため、あとは6歳の長男・一幡が継ぎ、日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、12歳の弟・千幡には関西38ヶ国の総地頭を譲ると発表された。しかし千幡に譲られる事に不満を抱いた能員が、千幡と北条氏討伐を企てた」(8月27日条)。「病床の頼家と能員による北条氏討伐の密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に報告し、先手を打った時政は自邸に能員を呼び出して殺害、一幡の屋敷を攻め、比企一族を滅ぼし一幡も焼死した」(9月2日条)としている。

京都側の記録である『愚管抄』によれば、頼家は大江広元(おおえひろもと)の屋敷に滞在中に病が重くなったので自分から出家し、あとは全て子の一幡に譲ろうとした。これでは能員の全盛時代になると恐れた時政が能員を呼び出して謀殺し、同時に一幡を殺そうと軍勢を差し向けた。一幡はようやく母が抱いて逃げ延びたが、残る一族は皆討たれた。やがて回復した頼家はこれを聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、政子がこれを押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の手勢に刺し殺されたという。

頼家は伊豆国修善寺に護送され、北条の者によって殺害されました。享年23歳でした。実はこの修善寺はこれより前に叔父・範頼も殺害された場所です。場所は違いますが、義朝も尾張国野間の家臣の屋敷内の風呂場で殺害されています。頼朝に近い者が3人も風呂場で暗殺されているのは興味深いことではあります。ずっと後の世の中になりますが、江戸城を築城した太田道灌(おおたどうかん)という武将が室町時代の中期に居たのですが、この武将も主君の屋敷の風呂場で暗殺されています。風呂場では刀などを持って入ることが出来ないので、誰もが無腰になるので殺し易いと考えられたのでしょうね。頼朝の急死から始まる北条一族の暗躍、特に時政の野心、野望は明白ではありますが、一方で政子はどんな気持ちだったのでしょうか。自身が腹を痛めて産んだ子を父である時政が殺す。父を止められなかったのか。最終的には政子が産んだ男子とその子孫は絶えてしまうことになるのですが。いくら自身の一族の繁栄の為とは言え普通では考えられないのではないかと思いますし、これが「日本三大悪女」の一人と言われる所以なのかなと思ってしまいますね。

今回も最後にあってはならない歴史の「もしも」を想像してみることにしましょう。

頼朝は52歳で亡くなっていますが、この当時の坂東武者は意外に長寿で、舅である時政は77歳、「鎌倉殿の13人」の1人である三浦義澄(みうらよしずみ)は73歳、石橋山の戦いで敗れて真鶴へ頼朝と共に逃げる「七騎落ち」の2人、岡崎義実(おかざきよしざね)は88歳、土屋宗遠(つちやむねとう)は90歳、頼朝の最側近である安達盛長(あだちもりなが)は65歳、頼朝が安房(千葉県)で味方になった千葉常胤(ちばつねたね)は83歳と皆が頼朝より長生きで、更に義時も61歳という生涯ですので、頼朝が短すぎた感もあります。仮に頼朝があと10年とは言わず、最低でも5、6年長生きしていたらその後はどうなっていたのかと想像してみたいと思います。

1199年 頼朝の急死
1200年 梶原景時の変(梶原一族滅亡)
1203年 比企能員の変(比企一族滅亡)、頼家追放
1204年 伊豆修善寺にて頼家暗殺
1205年 畠山重忠の乱(畠山一族滅亡)

とりあえず上記5件の事件に伴う御家人一族の滅亡や嫡男・頼家の追放や暗殺等は絶対起こらなかったでしょうし、頼朝がこのようなことをさせないはずです。北条氏も頼朝あっての北条氏ですので、頼朝が生きている間に何かをして、叱責や追放等を受けても良いことはありません。目立った動きはないように思います。そしてこの5、6年の間に頼朝から帝王学を学んだ頼家は、きっと素晴らしい「鎌倉殿」に成長していったでしょう。先にもお伝えした通り『吾妻鏡』は北条氏が編纂しているので、頼家を遊興にふけり家来の愛妾を寝取る暗君として描かれています。これは京都側の資料とは明らかに異なり、頼家をことさら貶める北条氏による政治的作為が反映されています。このことから逆に類推すると頼家は能力もあり、二代目鎌倉殿として充分にその職責を担うことが出来る武将だったのではないでしょうか。ですからそういった素地のある頼家が頼朝から全てを学んでいれば、きっとしっかりした二代目になったはずです。源氏の将軍が3代で途切れることもなかったし、北条氏が執権として幕府を主導することはなかったのかも知れません。結果的には頼朝の急死がその後の幕府の形を決定づけたてしまったのでした。