皆さん、こんにちは。世界が騒がしい情勢の中、日本も先日来から東北地方を中心に地震が頻発しています。この時期にかなり大きめの地震が頻発することで、誰もが東日本大震災を思い出してしまいます。特に幼少期にあの経験をした子供たちの心が心配ですね。まだ癒えてはいないと思いますが、今回の地震で再び思い出してしまわないか。そういったケアをもっと細かく、そして長期間、普通にできる世の中になれば良いなと思います。

さて今回は、現在絶賛放送中の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」から、実はかなり重要な人物であるのにその業績などの描き方が勿体ないと思われる人物がいますので、この場で詳しく皆さんにお伝えしたいなと思っています。

今回お伝えする人物は、上総介広常(かずさのすけひろつね、以下「広常」)、千葉介常胤(ちばのすけつねたね、以下「常胤」)の2名についてです。ドラマの中では、広常を佐藤浩市さん、常胤を岡本信人さんが演じています。この2人は「はとこ(またいとこ)」の関係にあり、血筋的にはそんなに離れていない親戚同士で、祖父同士が兄弟でした。

歴史に詳しい方なら、「坂東八平氏(ばんどうはちへいし)」ということをどこかで聞いたことがあるかも知れませんが、上総氏・千葉氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏のことです。実は広常と常胤はその嫡流にあたります。坂東八平氏の祖と言われる平良文(たいらのよしふみ)は桓武天皇のひ孫で、良文の嫡孫が房総平氏の祖である平忠常(たいらのただつね)と言います。この忠常は「平忠常の乱(1028年)」を起こし、源頼信(みなもとのよりのぶ)に平定されています。この頼信は鎌倉幕府を開いた頼朝の祖先にあたり、この乱が河内源氏の関東進出のきっかけとなりました。実は頼朝の時代よりも100年以上前から源氏とは関係があったのでした。

この忠常の官位が実は「上総介(かずさのすけ)」なのです。つまり上総介を継承する者が坂東八平氏の嫡流であり、筆頭者であったのです。因みに介とは「守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)」の四等官のことで、中央から地方へ派遣された官吏の位を示します。上総国は親王任国(しんのうにんこく)と言って、代々親王が任命された国である為、最高官位は「介」となります。この親王任国は常陸国(茨城県)、上総国(千葉県一部)、上野国(群馬県)の3つです。

一方、常胤も下総国(千葉県一部)の「介」の官位で、現在の千葉市あたりに本拠地を置いたため、千葉介と呼ばれていました。後に本拠地の地名を名字として千葉氏を名乗りした。これは私の地元の三浦氏も同様で、相模国の介であり相模国三浦郡を所領として与えられ、三浦介(みうらのすけ)を名乗りさらには三浦を名字としていました。ほんの一瞬ではありますが、3月20日の大河ドラマの放送で、頼朝が恩賞を出す際の書面には、上総介広常、千葉介常胤、三浦介義澄と記載されていました。皆さん気付きましたか。

では、広常や常胤が何故、頼朝に従ったのか。理由は幾つかありますが、当時の上総国の支配体制にあります。広常が平清盛(たいらのきよもり、以下「清盛」)のお気に入りの藤原忠清(ふじわらのただきよ)という人物によって謀反の疑いをかけられてしまい、その釈明に長男が京へ上洛していますが、逆に平家に拘禁されてしまいます。また、この忠清が清盛の威光を使って上総介の一族の主導権争い(広常には多くの兄弟がいて、その兄弟間での領地争い等)に加担し、広常が大変な窮地に陥っていました。そういった状況を打破したい広常の元に頼朝の使者である、旧知の和田義盛(わだよしもり、以下「義盛」)が現れました。実は義盛は三浦一族の長男の家系で、その父・杉本義宗(すぎもとよしむね)は房総半島に幾つかの所領を持っていて、その所領を守るために房総の地での戦いが原因で亡くなっています。

三浦一族も清盛の信頼の下、相模国全土を支配しようとする大庭景親(おおばかげちか)の力に屈するのを拒否して頼朝の挙兵に参加したという経緯があります。つまり広常が頼朝に味方した本当の理由は自身の所領を守る為に仕方なく平家打倒の挙兵に参加したのではないかと思います。当時の坂東武士にとって領地(所領)を守ることはとても重要で、生死にかかわる事柄だったのでした。現在では「一生懸命」と変化していますが、この当時は「一所懸命(いっしょけんめい)」という、「一所(自身の領地・所領)」に「懸命(命を懸ける)」ことが武士のとって大事なことであったようです。

また第2の理由は、広常や常胤、更には三浦義澄(みうらよしずみ)はかつて頼朝の父、義朝(よしとも)の家人であったということもあるのではないかと思います。共に義朝の長男である悪源太義平(あくげんたよしひら)の手勢として平治の乱(1160年)に参加し、平家と戦っています。数代に渡って河内源氏と繋がり、その家人として自身の所領を守ってきた者にとって、自身の所領を守ってくれる、認めてくれる者に味方するのは当然の道理として考えられます。北条時政(ほうじょうときまさ、以下「時政」)も状況は同じようで、親戚にあたる伊東祐親(いとうすけちか)による圧力は徐々に時政を追い詰めていったようです。つまり頼朝挙兵初期段階(鎌倉入り前)までに頼朝に加勢した坂東武士たち、北条・三浦・上総・千葉などは平家政権の圧政によって一族存亡の危機に瀕していた為であり、源氏再興の為に平家を討つというのはスローガンとして非常に明確で分かり易いですが、その裏には極めて現実的な事情があったのでした。

史実でも広常が頼朝に対して不遜な態度をとったことや、源氏累代の関係を背景に居丈髙な姿勢を見せたことが記されていますが、私から見ると2万の兵を引き連れてきた者としての自負や兵力に裏打ちされた実力があったのですから、ある意味で当然なのではないかと思います。この時、頼朝には自身が自由に使える私兵は安達藤九郎盛長(あだちとうくろうもりなが)1人位しか居なかったはずですから、挙兵後に味方に現れる武士1人1人に対して、「お前だけが頼りだ」と言い続けることしか出来なかったのだと思います。後の世の豊臣秀吉が「人たらしの名人」と言われていますが、実は頼朝も秀吉に負けず「人たらし」だったかと思いますね。

頼朝にとって自身を頂点とした武士の世の中を平家に代わって樹立させようとする中で、自分に反抗的な態度や言動を繰り返す広常は邪魔だったはずです。ただ坂東武士にとっては自分達の要求や思いを頼朝に直接伝える広常は多くの坂東武士の代弁者であったのかも知れませんね。何故なら頼朝は義朝とは違って、坂東で育ったわけではないので坂東武士の心や考えなどは分かるはずがなかったと思います。1183年、頼朝は広常が謀反を企てたとして、梶原景時(かじわらのかげとき)等に命じて、双六に興じていた広常を暗殺しました。嫡男は自害し、広常の所領は千葉氏や三浦氏に分配されました。

鎌倉時代初期に暗殺は何度も起こるのですが、謀反の疑いをかけられた者達は実際には潔白で、えん罪がほとんどだと思います。後になって広常もやはり無実だったことが判明しています。1184年、広常の鎧と1通の書状が見つかり。頼朝のもとへ届けられます。

書状の内容には、(1)3年の内に神田20町を寄進すること、(2)3年の内に神殿を造営すること、(3)3年の内に万度の流鏑馬を射ること。という計画が書かれ、全ては頼朝の祈願成就や東国泰平の為であると記されていました。謀反を企てる者が書いたものとはとても思えない願文を目にした頼朝は激しく後悔したと言われています。その後悔はその後ずっと残っていました。これを受けて、囚われの身であった広常の弟たちは釈放されましたが、坂東八平氏の嫡流の地位は千葉氏が継承しました。

1190年に上洛した頼朝は後白河法皇と対面し、広常の件を問われています。(この点は上総介広常の名が坂東だけでなく、京にも届いているということになりますね。)広常を味方にすることで東国を打ち従えることが出来たと話しながらも、頼朝は「平家政権を打倒することよりも、坂東の独立を望んでいたので殺した」と返答しています。頼朝は平家を打倒し、朝廷との協調路線もしくは朝廷の傘下に入ることで東国政権を図ろうとしていました。朝廷の傘下に入らず独立することを主張していた広常(おそらく坂東武士の多くは広常と同じように構想、考えであったと思います。)を殺害したことで、頼朝が作る政権の方向性が確定したと考えられます。 平家の流れ(坂東八平氏の嫡流)を持つ家系でありながら、河内源氏(頼朝)に味方し結果的に天下を取らせた広常。最大級の戦力や兵力で頼朝を窮地から救い、鎌倉幕府樹立のきっかけを作った第1の功労者であるのは明らかだと思います。しかしながら頼朝の命で最期をむかえた皮肉な運命を辿った人物で、心の奥底にある本心が伝わりにくい風貌や態度であったのかも知れませんが、坂東武士としては頼りがいのある、親分肌の武士だったと思います。大河ドラマでもその点は表現されていて、主人公・義時は事あるごとに広常を頼り、広常も若い義時にアドバイスを行っています。しかし、それまでの坂東武士にとって政治的な駆け引きがほとんど必要ななかったはずですが、この時代になってそういった能力が坂東武士にも必須になっていったのではないでしょうか。だから同じように武骨で純粋な坂東武士(義盛や畠山重忠、比企能員など、この点は頼朝の兄弟<範頼や義経>も同じように感じます)は政治的な駆け引きが出来ずに、駆け引きに長けた頼朝や北条氏によって滅ぼされていったのかもしれませんね。