しかしすぐに、安倍元首相を狙った動機が、本人の供述から政治的な反撃のテロではなく、「個人的な恨み」との報道がなされた。たまたま、参議院選挙の応援演説のさなかの凶行であったため、多くは「言論への暴力的弾圧」とか「民主主義の危機」とかいう論調の主張が当初垣間見られたが真相が詳細になるにつれ、以前から多くの軋轢を残してきた新興宗教、旧統一教会への怨恨がクローズアップされ、メディアの報道が旧統一教会のオカルト報道一色になっている。
この事件の数日後に、かつての無差別殺傷事件のシンボルともいえる秋葉原事件の犯人の加藤死刑囚の死刑が執行された。その後の一連の無差別殺傷事件の端緒ともいえるこの事件については5回前の筆者のコラムで「令和とコロナ禍で多発する無差別殺傷事件の閉そく感」で論じている。
2008年に起きた秋葉原事件のこの死刑囚は当時25歳、中学校で成績優秀で高校の進学校に進んだが、そこで、成績が低下して母親から厳しい叱咤を受けるようになり、そこからもがき苦しみながら、脱落感を増長させていく。だが親の教育に行き過ぎがあったとしても立ち直れる可能性はいくらでもあった。加藤死刑囚はその後自動車工場の派遣社員であったが、リーマンショック直前で自動車が減産され、派遣切りがおきて、派遣労働者が社会から疎外されるという政治課題の中でこの事件の因果関係は起きている。
加藤死刑囚39歳、今回の安倍事件の山上容疑者41歳ともに、就職氷河期の世代である。この世代は半分近くが、未だ非正規社員として、派遣労働者、アルバイトという現実におかれている。
無差別殺傷事件は孤立して自らの苦しみが誰によってもたらされたかという抽象的な思い込みから始まる。全ては自己責任という近年の社会的風潮がますます突然暴発の引き金を引くのであろう。「他人のせいにするな、自分が悪いのだから自分で起き上がれ」というまっとうな人生訓の神通力は発揮されない。
「自己責任論」は一見、正当な主張として共感を呼ぶが、そこには社会的な優しさが欠落している。かつて日本社会が持っていた、助け合い、弱い者を支える、包摂の伝統はいつごろから喪失していったのであろうか。成長性や生産性や合理主義が幅を利かし、人間関係も希薄で実利的な繋がりが目的化している世の中で、ますます孤立していく弱者が見捨てられていく。
「こんな日本に誰がしたである」。
統計によると正規社員の平均給与は月35万円、手取り27万円、平均年収522万円に対して非正規社員の平均給与は月23万円、手取り18万円、平均年収280万円と低賃金のため、日々の生活だけで精一杯で、結婚など論外で老後の生活は見通しがつかず、いつまでも不安にさいなまれている。
秋葉原事件から14年間、この無差別殺傷事件は例えば相模原市の障害者施設殺傷事件では、犯人の鬱屈は「社会全体が苦しいのは障害者に、予算が使われているからだ」と障害者に向かった。京都アニメーションの放火事件は容疑者が自分が苦しいのは「京アニに自分のアイデアが盗まれたからだ」という妄想に近い逆恨みである。小田急車内の放火事件は「幸せそうな女性に」矛先が向いた。
この14年間、格差、貧困、労働形態は克服できたかというとむしろ悪化した。社会や政治が対応しきれなかったという結果でもある。こういう不満や怨恨がいずれ政治家や財界人に向かうというのが歴史でもある。ただ、今回の元首相襲撃事件は直接的には旧統一教会と安倍元首相との同一性の思い込みの不条理な犯罪でもあるのだが、なんとなく大きな社会的な動向の因果関係がじわっと回りまわってきていると感じるのは筆者だけであろうか?