皆さん、こんにちは。今年も残すところあと1か月となりましたね。今年も様々なことが起こり、またこれから起こるであろう事柄の原因が生まれてきたのではないかと思います。新型コロナウィルスの第八波の影響が出ている状況で、年末年始を迎えるのが心配ですが、今まで通り「うがい・手洗い・マスク着用・検温」の徹底しかないのでしょうね。自身を律した日々の規則正しい生活が自身の健康と周囲の方の生活を守るのかと思います。

さて今回は佳境に差し迫った大河ドラマ「鎌倉殿の13人」において終盤のキーパーソンになっている三浦義村(みうらよしむら、以下「義村」)とその一族で初代侍所別当・和田義盛(わだよしもり、以下「義盛」)について述べていきたいと思います。実はこの二人が属する「三浦一族」が本拠地としていた相模国三浦半島一帯は私の地元でして、年少のころから色々と調べたり、遺跡や神社を訪ねたことのある馴染みのある一族なので、今回の話しがかなりマニアックになってしまうかもしれませんが、大目に見て頂けると有難いです。

まず初めにこの当時の坂東八平氏と呼ばれる武士団のそれぞれの一族内の状況についてお話します。以前にもお伝えしたかと思いますが、坂東八平氏とは千葉氏・上総氏・三浦氏・土肥氏・秩父氏・大庭氏・梶原氏・長尾氏の8つの武士団のことを指していますが、更にこの一族から多くの分家がこの当時生まれています。大河ドラマのなかでも幾つかの分家の名前が出ています。またこの8つの武士団自体も千葉氏と上総氏は兄弟、大庭氏と梶原氏、長尾氏も兄弟や親子関係にあたり、本家と分家と言えども勢力は拮抗していました。前回お伝えした畠山重忠も秩父氏の一族ですが、その勢力は本家の秩父氏以上でした。同様に土肥氏も土屋氏、小早川氏という本家に劣らない分家がありましたし、三浦氏にも和田氏や岡崎氏、佐原氏といった有力な分家が本家とは別に大きな力を持ち、独立独歩の精神があったように思えますね。この状況を踏まえて、義村と義盛の関係性を見てもらえると面白いかと思います。

この義村と義盛は大河ドラマでも度々近い立ち位置にいるのは皆さんもお気づきだと思います。この二人は従兄弟同士で、義村が年下で本家の当主、義盛が年上で分家の当主という立場であるのですが、ここには複雑な関係性がもう一つあります。それは二人の親の関係性です。二人にとって祖父にあたる、三浦大介義明(みうらおおすけよしあき、以下「義明」)には数多くの子供がいました。義村の父は次男・三浦義澄(みうらよしずみ、以下「義澄」)であり、義盛の父は長男・杉本義宗(すぎもとよしむね、以下「義宗」)です。つまり義盛の父である義宗が長男(嫡男)であり、本来ならば三浦本家を継ぐべき者だったのです。

三浦氏は代々源氏の家臣(郎党)として仕えていましたが、頼朝の父である源義朝(みなもとのよしとも)は相模国鎌倉を本拠地(現在の鶴岡八幡宮の周辺である大倉地区)として、周辺の国である上総国(千葉県)、下総国(千葉県・茨城県)、武蔵国(東京都・神奈川県)、安房国(千葉県)の有力豪族(坂東八平氏)を家臣(郎党)としていました。この鎌倉に程近い場所に義宗は城を構えていました。現在の鎌倉市二階堂にある杉本寺がある場所の裏山にあった杉本城がその城です。この場所は鎌倉と三浦を結ぶ六浦(むつら)道を抑える要所でした。また義明の娘が義朝との間に長男・悪源太義平(あくげんたよしひら、以下「義平」)を生み、その義平も鎌倉で暮らし、その義平に義宗は生まれた時から付き従っていました。

一方義澄は兄、義宗が生きていた頃は三浦ではなく、自身の領地の矢部を名乗っていました。この矢部は現在の横須賀市大矢部(おおやべ)で三浦氏の本拠地である衣笠(きぬがさ)城の目と鼻の先にある一帯です。本拠地の間近に領地があるということは跡継ぎと考えていたということも考えられますが、義澄が矢部から三浦と名を変えるのは義宗が亡くなってからと言われています。

義宗が若くして亡くならなければその長男である義盛が三浦の当主になっていたかもしれません。義宗が亡くなった当時義盛は17歳であり、義澄は37歳という状況でした。この当時の三浦一族は義明が様々な方法で勢力拡大に努めていた結果として、坂東八平氏と呼ばれる武士団、更に源氏とも血縁となっていた為、坂東有数の勢力を持った武士団となっていました。その武士団を纏める当主が17歳ではやはり良くなかったのでしょう。結果として義盛は若すぎた為に一族の長(当主)は叔父である義澄になってしまったと思われます。

本家の当主の座を叔父に取られてしまったからといえども、義盛率いる和田一族の勢力は三浦一族内では群を抜いていました。義盛には兄弟や子供が多く、和田一族は義盛を中心に団結していました。また、勢力が大きかった証拠に義盛が三浦半島内に多くの寺院を建立し、その本尊には現在もなお国宝級として多くの仏像が残っている仏師・運慶(うんけい)に仏像の多くの製作を依頼しています。横須賀市芦名にある浄楽寺(じょうらくじ)には国指定の重要文化財である「阿弥陀三尊」と「不動明王・毘沙門天」があります。またこの寺の境内墓地には近代郵便制度を整えた前島密(まえじまひそか)の墓もあります。義盛は畠山重忠と並び坂東武士の代表格の武士で、重忠が「坂東武士の鑑」と呼ばれ、義盛は「坂東武士らしい武士(武勇に優れ愚直な者)」と呼ばれていました。その為、坂東武士から人望も人気もあったのですが、一方の義村は正反対の鋭利な頭脳を持った政治感覚に長けた人物であったように思います。実際、大河ドラマの中でも頼朝死後は裏で様々な画策をしてギリギリのところで切り抜けて助かっていますね。

後に和田合戦(1213年)と呼ばれる鎌倉市街地で起こった戦いにおいて、その義盛が最も頼りにしたのが、同じ三浦一族の義村でした。当初義村はこの義盛の挙兵に同心を約束していました。しかし、機を見るに敏な義村は裏切っています。『明月記』には義盛と義村が以前から対立関係にあったしていて、当初から内通していた可能性が高いと記しています。また『愚管抄』には「義盛左衛門と云う三浦の長者、義時を深く嫉みて討たんとの志ありけり」と記していて、京都では叔父義澄の死後の三浦一族の当主は義盛とみていたようです。私見ですが義村は義盛にある意味で嫉妬していたように思えます。一方で背負っているものの大きさが義盛と義村では絶対的に違った為、義村は義盛を羨望の眼差しで見ていた部分もあったのではないかと思います。結果として義盛は敗れ、和田一族は滅んでいますが、実は生き残っている子供や兄弟がいました。源義仲の側室であった巴御前との間に生まれたとされる朝比奈義秀(あさひなよしひで)もその1人で、天下無双の大力と称され、鎌倉市十二所から横浜市金沢区朝比奈町を結ぶ峠道として有名な「朝比奈切通し」を一晩で切り開いたと言われています。武勇に優れた義盛と女武者と呼ばれ、「強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)なり」と称された女性との間に生まれたのですから、一晩で切通しを開いたかも知れませんが、実際は後の世の創作のようです。この朝比奈切通しは「鎌倉七口」の一つで、他に極楽寺坂切通し、大仏切通し、化粧坂(けわいざか)、亀ヶ谷坂、巨福呂坂(こぶくろざか)、名越(なごえ)切通しがあります。この鎌倉七口はその後に北条氏によって整備されています。その整備の背景には京都の朝廷に対する警戒心と三浦半島で勢力を拡大しつつあった三浦一族との対立関係があったとも言われています。他には織田信長の家老として活躍した佐久間信盛(さくまのぶもり)や幕末の兵学者であり思想家・佐久間象山(さくましょうざん)もその子孫にあたります。

和田合戦後において義村の幕府内の序列は当然のように上がりました。そんな義村に対して千葉胤綱(ちばたねつな)が「三浦犬は友を食らうなり」と言ったエピソードがあります。これは将軍御所の侍の間の上座を占めていた義村のさらに上座に若い胤綱が着座し、不快に思った義村が「下総犬は、臥所を知らぬぞよ」という発言への切り返しであるのですが、これは座席の順位すなわち席次は、序列での位置、地位やステイタスの表象であり、その人物の格付けが端的に表現されたもので、義村という人物が長幼の序にこだわり年長者を立てようとする面をあること、そうした性格を具えた人物像であることも垣間見ることが出来ますね。政治力に長けた義村はその後も様々な事件に絡みながらも事件後には自身及び一族の地位をその都度上げています。実朝暗殺事件には首謀者である公暁の乳母父として黒幕と思われるような行動をしながら、公暁を討ち取って手柄を挙げていますし、承久の乱(1221年)では弟の胤義(たねよし)が上皇方について反北条の決起を促がす書状を受け取っても、それを義時に差し出し、幕府方として胤義を攻めています。更に義時死後の伊賀氏の変(1224年)においても伊賀の方の子である後の執権・北条政村(ほうじょうまさむら)の烏帽子親(えぼしおや)であり、陰謀に関わっていましたが、北条政子の説得により翻意して、その後も幕府の宿老(重臣)として活躍しました。武家政権の為の法令でその後の政権や武士の規範となった御成敗式目(1232年)の制定にも署名しています。この頃が義村及び三浦一族の最盛期であったかと思います。義時の後を継いだ泰時(やすとき)の正室は義村の娘(矢部禅尼)であり、嫡男・時氏(ときうじ)、時実(ときざね)も生まれていました。この時氏の子が時頼(ときより)で孫が時宗(時宗)になります。幕府の中枢に自身及び息子である泰村(やすむら)が入り、さらに北条氏も自身の最も親戚としていました。

しかし、皮肉なことに息子達は自身の曾孫(時頼)に滅ぼされてしまいます。三浦一族が北条氏に敗れ、滅亡するのは義村が亡くなってから8年後の宝治合戦(1247年)になります。この宝治合戦は三浦一族の権勢が北条氏を凌ぐものになっていたことを危惧した五代執権・時頼と安達泰盛(あだちやすもり)が画策した策謀に乗ってしまい、挙兵し大敗したものですが、この当時の当主・泰村(やすむら)に父義村ほどの政治力や兄弟、御家人たちを纏める指導力や発言力があれば、このようなことはなかったと考えられます。振り返ってみると従兄弟である義盛にも政治力は無かったのですが、息子にも義盛同様に政治力は無かったということになります。息子に政治力が大事であることを伝えていれば良かったと思うのですが、難しかったのかも知れませんね。そう考えると義村が三浦一族内で政治的に抜群なバランス感覚を持った稀有な人物だったのかも知れないですね。義村だから三浦一族は唯一北条氏に対抗し続けた一族だったのかも知れません。和田氏同様に三浦氏も宝治合戦で全てが滅んだ訳ではありません。宝治合戦後には泰時に嫁いでいた矢部禅尼が一族の佐原盛連(さわらもりつら)に再嫁して、そこで生まれた子が三浦氏を継いでいますし、その兄弟は会津地方に勢力を張り、後に戦国大名として伊達政宗と戦う蘆名氏に繋がっていきます。また義村の多くの息子の1人の子孫が駿河三浦氏として今川氏の家老になり、他には江戸時代、徳川家光に仕えて譜代大名として美作勝山藩主になった子孫や三浦氏支流として正木氏は徳川家康に仕え紀州藩家老になった子孫もいます。変わったところでは、三浦大介義明の弟で芦名為清(あしなためきよ・戦国大名の蘆名氏はこの芦名氏の名跡を継いだ一族になります)の子で石田為久(いしだためひさ・源義仲を討ち取った者)の子孫が豊臣秀吉に仕えた石田三成であると言われています。

鎌倉幕府の創業期は武力や個人のカリスマ性が組織や人を動かしていったと思いますが、創業期が過ぎて成長期や安定期に入ると武力やカリスマ性は必要無くなり、政治力が必要になってくることは歴史が示しています、それは江戸幕府も同様だったようです。家康が天下を取るまでは武勇に優れた家臣(徳川四天王と呼ばれた、本多忠勝や榊原康政など)が重用されましたが、徐々にそれらの武将は遠ざけられて、文官や官僚といった政治力や事務処理能力に長けた者が重用されていったのを私たちは後世の者として知っています。江戸時代よりも500年も前の時代でもやはりそれは同じだったということになりますね。歴史は繰り返されるという言葉は正にその通りなんだと改めて感じてしまいますね。