皆さん、こんにちは。私的な諸事象により数か月間お休みしてしまい、申し訳ありません。しかし、また今月から以前と同じようにマニアックな歴史コラムをお伝えしていきたいと考えていますので、気楽に読んでください。今年は卒業式や入学式がコロナ禍以前に戻って、桜の開花宣言からの雨模様と気温低下が幸いして、正に満開の時期に重なっています。日本人には太古の昔から桜に対する遺伝子が組み込まれていると私は思っています。毎年桜の開花を聞き、満開の桜を見ると有名な二句を思い出しますね。「久方の 光のどけき春の日に 静心無く 花の散るらむ(紀友則)」「願はくは 花の下にて 春死なむ その如月の望月の頃(西行法師)」

さて、今回から現在放送中の大河ドラマ「どうする家康」より徳川家康に関わってきた人物や事件について皆さんに豆知識的なことからマニアックな内容をお伝えしていきたいと考えています。最初の今回は家康に多大な影響を及ぼした今川義元(いまがわよしもと、以下「義元」)と氏真(うじざね、以下「氏真」)、その一族についてお伝えします。

まずは最初に今川氏についてお伝えします。今川氏は足利幕府を創設した足利尊氏(あしかがたかうじ)の一族で、一族内でも名門とされて家格の高い一族でした。「御所(足利将軍家)が絶えれば吉良(きら)が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と言われていたように、足利宗家の血脈が断絶した場合には吉良氏は征夷大将軍の継承権が発生する特別な家柄であったとも伝わり、その吉良氏の分家である今川氏も副将軍の称号を許されたり、将軍家から「天下一苗字」の待遇を受け、本家のみしか「今川」を名乗れない特別な家でありました。今川氏は鎌倉時代に吉良長氏(きらながうじ)の次男である国氏(くにうじ)が三河国幡豆郡今川荘(愛知県西尾市今川町)を長氏から譲られ、その地名により今川氏と称したと言われます。長氏の孫に後年、家康の正室となる築山殿の実家である関口氏も生まれています。今川氏は創設時から宗家である足利氏の元にあり、着実に勢力を付けていき、鎌倉幕府滅亡から建武の親政、南朝との戦いに際しては、足利宗家側に付いて各地で戦功を挙げて、駿河・遠江国(静岡県)の守護に任じられ、それ以降今川本家が世襲するようになりました。また、室町幕府の出先機関である関東公方に境を接していることから監視役も将軍家から任されていました。

大河ドラマの中では当主は義元で、その嫡男氏真(うじざね)が出ています。実はこの当時は今川氏の最盛期で、軍事力や政治力、経済力などは当時の日本トップクラスで、義元自身も「海道一の弓取り」と呼ばれていました。後に家康もそう呼ばれるようになりました。そう呼ばれた義元の元には優秀な軍師がいました。家康も幼少時に教えを受けた太原雪斎(たいげんせっさい、以下「雪斎」)です。この雪斎は今川氏の譜代の家臣である庵原氏(いはらし)の生まれで、臨済寺で出家していましたが、義元の教育係を務めていました。後に雪斎は京都五山の建仁寺で修行していたのですが、そのころから秀才として将来を嘱望されていたと言われ、その噂を聞いた義元の父である氏親(うじちか)から帰国して今川氏に仕えるように要請されたが、これを二度までも断ったと伝えられています。氏親は分国法で有名な「今川仮名目録(いまがわかなもくろく)」を制定した人物ですが、伊勢新九郎(いせしんくろう、後の北条早雲(ほうじょうそううん))の甥でもあります。

実は義元もその父である氏親も当主になる前に一族内の家督争いを経験しています。氏親はその父である義忠(よしただ)が戦死し、幼少であった為、一時期駿河を離れて京都に住んでいて、叔父の早雲や氏親派の一族や譜代家臣によって家督を相続しています。また義元も同様に氏親の死後に家督を継いだ兄2人が急死した為に異母兄と家督争い(花倉の乱)をしています。この争いの際に雪斎や母親の寿桂尼(じゅけいに)が尽力しました。このことから義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事における最高顧問として重用しました。僧侶としても臨済寺を開寺、京都妙心寺の第35代住持に就任したり、駿河国に多くの寺院を中興したり妙心寺派の普及に尽力しています。また臨済宗を中心とした領内の寺社・宗教の統制や在来商人を保護する商業政策なども行い、今川氏最盛期に大きく貢献していました。

駿河・遠江・三河・尾張の一部を領していた義元が京都への上洛途中、1560年に桶狭間の戦いで織田信長に本陣を襲撃され、敗死しました。この事件によって今川氏から離反していく家臣が出て、今川氏の勢力は弱まっていきます。その理由としては、義元の跡を継いだ氏真が義元ほどのカリスマ性や軍事や内政、外交といった分野の能力が劣っていたことが考えられます。しかし、戦国時代を代表する人物の一人である義元と比較してしまっては可哀そうな部分もあるかと思います。一方で氏真は文化人として和歌・蹴鞠の面で歴史に名を残していて、その一方で剣術について名を残しています。師匠としては塚原卜伝(つかはらぼくでん)に新当流の剣術を学んでいます。実は戦国武将の中でも剣術で学んでいる人は少なく、有名なのは13代目足利将軍・義輝(よしてる)が氏真と同じ卜伝に剣術を学び、新当流の免許皆伝を得ていました。また、家康も上泉信綱(かみいずみのぶつな)の新陰流の流れをくむ神影流剣術の開祖である奥平休賀斎(おくだいらきゅうがさい)から免許皆伝を得ています。当主本人が剣術を学ぶことは当時余り例がなかったのですが、氏真が剣術を学んだ理由は父である義元を自らが守りたいという気持ちがあったのではないかと思っています。

大河ドラマでも描かれていました掛川城の開城後は奥方である早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入っています。その後小田原に移り、早川に屋敷を与えられています。北条氏康(ほうじょううじやす)が亡くなると北条氏の方針も転換され、氏真は家康の元に身を寄せるようになります。その後は京都に滞在しています。ここで若い頃に学んだ和歌や蹴鞠の能力が大きく活かせたと考えられます。京都はいつの時代も文化の中心であり、流行の発信地で、京都で生きて行く為には文化的な素養が無ければ生きていけません。氏真は充分に生きていくことが出来たでしょうし、実際にその当時の多くの公家の日記などにはその名が何度も出てきていました。京都在住時の氏真は秀吉や家康などから与えられた所領からの収入で生活していたと思われます。

1598年には氏真の次男・品川高久(しながわたかひさ)が家康の嫡男である秀忠(ひでただ)に仕えるようになり、1611年には氏真の嫡男・範以(のりもち)の遺児である直房(なおふさ)も秀忠に仕えるようになります。この直房が高家今川氏の初代当主となります。高家とは江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で、今川氏とともに同じ足利一族の吉良氏を秀忠が登用して始まったと言われています。最大で26家あったと言われています。氏真の子孫は今川氏・品川氏ともに幕末まで続いて、今川氏は明治に入って絶家していますが、品川氏は現在も続いています。徳川幕府は没落した名家を数多く復活させていて、信長の子孫や信玄の子孫なども小大名や旗本として江戸時代を生きていました。

氏真の現在の評価の元になっている文献を挙げてみますが、私は余りこの評価を鵜呑みにはしていなくて、歴史に「if(もしも)」はあってはならないのですが、生まれてきた時期が戦国時代の末期ではなかったならば、素晴らしい当主になったのではないかと思っていますし、義元が桶狭間で敗死しなければ、義元が京都に上洛していたら、と考えてしまいますね。名門がゆえに譜代の家臣団の力は強く、当主の権限は強大であったはずですから、当主としてのプレッシャーや周囲の眼や捉え方は物凄かったと思います。その重圧に負けてしまう者の方が多かったでしょう。しかし、氏真は義元の敗死を正面から受け入れて、今川氏存続の為に一歩も引かなかったから、戦国大名今川氏は滅亡したのではないかと思います。この考え方は武田信玄の跡を継いで滅亡した勝頼にも通ずるように思えますね。

寛政の改革で有名な松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で、「日本治りたりとても、油断するは足利義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌や蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多く、19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されています。

最後に皆さんは「足利御三家」というのを聞いたことがありますか。「徳川御三家」じゃないのって仰る方が多いのではないかと思いますが、実は「徳川御三家」の考え方の元になったもので、最近の研修でこの「足利御三家」が注目されていて、私もとても興味を魅かれています。また別の機会に、この「足利御三家」のことを簡単にお伝え出来れば良いなと考えています。