皆さん、こんにちは。季節はあっという間に秋が過ぎて冬が到来しているように感じますね。もみじやいちょうは綺麗に色づいて各地で紅葉が見頃となっています。日本人の大半は「富士山、桜、紅葉、花火」が嫌いではないと思いますので、徐々ではありますが、かつてのようにこの紅葉を求めて多くの方がその場所を訪れられる日が戻ってくることを願っています。

さて、第126代天皇に今上天皇(徳仁親王)が即位し、元号が248番目の「令和」になって3年が経ち、第100代・101代内閣総理大臣に岸田文雄氏が就任しました。今回からはこう言った数字に着目して人物やエピソードを何回かに渡って述べていけたらと考えています。

最初は日本最初の元号である「大化(たいか)」に関わる出来事や人物について述べていきます。「大化」と言えば、「大化の改新(645年)」ではないでしょうか。皆さんも学生時代の歴史の授業で一番最初に語呂で覚えた出来事ではないでしょうか。【645年大化の改新(たいかのかいしん むしごろし)】のように。

その「大化の改新」の中心人物と言えば、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)になります。悪の蘇我氏を倒したヒーローとして歴史の教科書に記載されていると思います。しかし実態はそうではなかったようなのです。そのダークな辺りをお伝えしていきたいと思います。

まず初めに、この蘇我入鹿(そがのいるか)を母親である皇極(こうぎょく)天皇<重祚して斉明(さいめい)天皇>の目の前での宮中の儀式の最中に暗殺するという出来事は「乙巳の変(いっしのへん)」と呼ばれます。「大化の改新」と呼ばれることはその後の政治改革を指しています。この当時、中大兄皇子は19歳、中臣鎌足31歳でした。19歳にしてこのようなことを計画し、実行する力は凄いと思いますが、やり方が少々荒っぽいように思えますし、何となく暗いイメージを持ってしまいますね。このことは後程お伝えする内容にも通じるものになります。【自身の政策や考えに賛同しない者は敵、倒すべき者】と捉えてしまう一面があったようです。

この考えはこの後も歴史に現れています。乙巳の変の後、3か月後に謀反の疑いで異母兄・古人大兄皇子(ふるひとおおえのおうじ)を殺害し、649年には乙巳の変で味方した蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだいしかわまろ)、658年には従弟の有馬皇子(ありまのおうじ)をそれぞれ密告によって殺害しています。先程述べた自身の意見や考えに賛同しない、地位を脅かすであろう者は排除するという感じがします。最終的には皇太弟であり、自身の後継者と指名した大海人皇子(おおあまのおうじ)にまでその手は及びました。晩年、天皇に即位し天智天皇になった中大兄皇子は、次代を皇太弟に任せたはずですが、息子の大友皇子(おおとものおうじ)が可愛かったのか、新たに太政大臣という位を創設し、その位に大友皇子を付けて政権を担わせます。流石は兄をよく知る弟である大海人皇子は、この人事刷新に危険を感じたのか出家し吉野へ行ってしまいました。天智天皇の死後に大海人皇子と大友皇子の天皇の位を争った古代日本最大の内乱、壬申の乱(672年)は起こります。

上記の考えは相手が天皇であろうと変わりませんでした。乙巳の変の後に即位した伯父である孝徳(こうとく)天皇は新たな政治を難波宮にて行うこととしましたが、これに中大兄皇子は反対。中大兄皇子は飛鳥宮で行うように考え、群臣及び皇后までも引き連れて飛鳥に移ってしまいます。これにショックを受けた孝徳天皇は寂しく難波宮で崩御してしまいました。この孝徳天皇の息子が実は先程お伝えした謀反の罪で殺害された有間皇子です。ですので父親の空しく寂しい最後を知っている有間皇子は中大兄皇子に対して細心の注意を払っていたはずですが、密告によって殺されてしまいしました。

私たちが歴史の授業で習う「大化の改新」は美談のように教えられていますが、実はここには勝者の都合の良いように書き換えられている部分があるようです。何故なら今習っている史実は「日本書紀」が元になっています。この「日本書紀」は天皇家や藤原氏の功績をアピールする傾向にあり、必要以上にその敵であった蘇我氏を悪く記述していることが言えるのです。これは豊臣秀吉が殊更に織田信長を冷酷な人間とし、明智光秀を貶めていることと同じです。私たちが知っている歴史は勝者の主観であって敗者のことは一切分からないように作為的に作成されているのです。

中大兄皇子が天皇に即位したのは皇太子になってから23年後の668年になります。何故これほど長い間「皇太子」として政治を行っていたのか。天皇という地位で政治を行うよりもやり易かったなど(責任を取りたくなかったから?)、様々な理由が挙げられているのですが、本当のところは今後の研究の進展によって判明するのではないかと思います。

さて、悪いイメージばかり伝えてきましたので、そうでない部分もお伝えします。

まず最初は当時の朝廷は朝鮮半島にある百済国にその影響力を持っていて、その百済が新羅国に滅ぼされてしまった後、百済復興を目指してその国の皇子を支援して「白村江(はくすくきのえ)の戦い」を起こしています。ただこの戦いは敗北してしまいます。その結果国土防衛の政策として水城や防人などを設置しています。次にそれまでの十九階の冠位を二十六階へと拡大し、行政機構の整備を行っています。また、即位後には日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成し、後の公地公民制が導入される為の土台を築いたり、漏刻(水時計)を作り、大津宮にそれを設置して鐘鼓を打って時報を開始したとされ、6月10日は時の記念日として知られています。

私は歴史に割りと詳しいと自負しているのですが、後に天皇になった方々で中大兄皇子(天智天皇)や大海人皇子(天武天皇)ほど天皇としての尊号が目立たないのはこの二人しかいないのではないかと思います。それは皇子の時代の功績や出来事が余りに有名過ぎて天皇名が目立たなくなってしまっているのだと思います。皇子や親王名が有名な方々もまだまだ歴史上多くいるのですが、その方々は天皇に即位していないのが実情だと思います。例としては日本書紀の編纂で有名な「舎人(とねり)親王」、建武の親政での「護良(もりよし)親王」などがいますが、天皇には即位していませんね。

最後の最後で息子に皇位を譲ろうとして弟を討てなかったのですが、壬申の乱の後、皇位は天武天皇の子孫に移りましたが、一族内の争いが絶えず、最終的には皇位を継承する男子が居なくなり、9代後の天皇には天智天皇の子孫が皇位に就いています。その後は現在までの皇位はその後何度か分裂(鎌倉時代中期から室町初期の「持明院統と大覚寺統」「南朝と北朝」)してはいますが、今上天皇も天智天皇の子孫にあたります。

最後に中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、万葉集で有名な額田王(ぬかたのおおきみ)の関係についてお伝えして終わりたいと思います。一般的に額田王を兄弟で取り合った、三角関係にあったのではないかと言われています。その根拠が以下の2首であると言われてきましたが、この2首は宴席での座興の歌で、学会では通説となっています。額田王は実際、大海人皇子との間に十市皇女(とおちのひめみこ・大友皇子の正妃)がいますが、別れた後に中大兄皇子に寵愛されてという話しが多いですが、その確証はなく宮廷歌人として中大兄皇子に仕えていただけなのかも知れません。

【茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る】(額田王)

(紫草の生えた野を行き、標野を行きながら(標野の)見張りが見やしないか、いや、見てしまうでしょう。あなたが(あっちへ行きこっちへ行きながら私に)袖を振るのを。)

【紫の匂へる妹を憎くあらば人妻ゆゑに我恋ひめやも】(大海人皇子)

(紫草のように色美しく映えているあなたのことをいやだと思うなら、人妻なのに(どうしてあなたのことを)恋い慕いましょうか、いや、恋い慕ったりはしません。(嫌ではないからこそ恋い慕うのです))