湯島聖堂
大変遅くなりましたが、あけましておめでとうございます。本年も徒然に気の向くまま歴史的な事件や人物について述べていきたいと思いますので、お付き合いいただけたら幸いです。世間では「東京オリンピック・パラリンピック」の開催に向けて賑わっている一方で、IR(総合型リゾート)事業に絡む疑惑や元日産自動車会長のカルロス・ゴーン氏の密出国や海外ではアメリカ合衆国とイランの問題等、年明けから今後に影響する波乱の幕開けである感じですね。

さて、今回は1月の歴史的な出来事として、宝永(ほうえい)6(1709)年1月10日に亡くなった徳川幕府第5代将軍・徳川綱吉(とくがわつなよし)について述べていきたいと思います。皆さんの綱吉のイメージと言いますか、最初に思い浮かべるのは「犬公方(いぬくぼう)」「生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)」の二つではないでしょうか。全体的に良いイメージを持たれていない人物ではないかと思います。しかし近年、綱吉の政治に対する評価は再検討が行われていまして、実は良い将軍であったのではないかという評価に変わりつつあります。

徳川綱吉(以下「綱吉」)は正保(しょうほ)3(1646)年1月8日、3代将軍・家光の4男として江戸城で生まれました。幼名は徳松と言いました。3代将軍家光についてここでは述べませんが、5歳の時に兄の長松(ちょうまつ・後の甲府宰相・徳川綱重(とくがわつなしげ))と共に15万石を拝領し、家臣団を付けられます。この年に父家光が亡くなり、長兄の家綱(いえつな)が4代将軍となり、併せて元服をし、偏諱(へんき・貴人から臣下の者へ二文字の内、通字ではない字を恩恵の付与として与える。「綱」の字)を受けて「綱吉」となりました。寛文(かんぶん)元(1661)年8月、参議に叙任され、上野舘林(群馬県館林市)25万石の藩主となります。このことから「舘林宰相」と呼ばれました。基本的に江戸在住で家臣の8割が江戸詰めであった為、生涯舘林に寄ったことは寛文3(1664)年の将軍・家綱に随伴した日光詣での帰路のみでありました。

将軍家綱に跡継ぎが生まれていれば、綱吉は舘林宰相、徳川親藩家の一家として一生を終わっていたのですが、大きな転機がやってきます。延宝(えんぽう)8(1680)年5月、綱吉34歳の時に将軍家綱に跡継ぎとなれる男子がなく、その養子になったであろう甲府宰相綱重も既に亡くなっていたため、家綱の養嗣子として江戸城二の丸に迎えられました。その後家綱が亡くなり、将軍宣下を受け5代将軍となりました。綱吉の治世は亡くなるまで29年間続くのですが、最初の5年間の治世は最近の研究で評価すべきものであったと言われています。大半が「生類憐みの令」が悪法としての印象が残っているために今までは評価が非常に悪い将軍となっていました。

将軍・家綱自身が「左様せい様(さようせいさま)」と陰口を言われるほど政(まつりごと)に無関心であった点と大老・酒井忠清(さかいただきよ・「下馬(げば)将軍」と呼ばれた)による独裁政治により、将軍権威が失墜したものを向上させるようと自身の将軍就任に功労があった堀田正俊(ほったまさよし)と幾つかの改革を実行します。幕府の会計監査のために「勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)」を設置して、少身旗本の登用や外様大名からも一部幕閣への登用も行いました。また、戦国の殺伐とした気風を排除して「徳」を重んじる文治政治(ぶんちせいじ)を推進しました。これは父・家光が綱吉に儒学を叩き込んだことに影響しています【弟として分をわきまえ、兄に無礼を働かないようにするため】。綱吉はしばしば後の大学頭・林信篤(だいがくのかみ・はやしのぶあつ)を召して討論を行ったり、幕臣に講義したほか、学問の中心地として「湯島聖堂」を建立したり、学問好きな将軍でもありました。儒学の影響で歴代将軍の中でも最も尊皇心が厚かった将軍として知られ、御料(皇室領)を1万石から3万石に増額したり、大和国や河内国一帯の御陵を調査の上、修復が必要なものに巨額の資金をかけて計66陵を修復させたり、公家たちの所領についてもおおむね綱吉時代に倍増しています。

後に赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)による松の廊下での吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしなか)への刃傷事件も大名であるにもかかわらず異例の即日切腹を命じたのも、朝廷との儀式を台無しにされたことへの綱吉の激怒が大きな要因とも考えられます。綱吉の儒学を重んじる姿勢は、新井白石(あらいはくせき)・室鳩巣(むろきゅうそう)・荻生徂徠(おぎゅうそらい)・山鹿素行(やまがそこう)らの学者を輩出するきっかけとなり、儒学隆盛の元となりました。綱吉の治世最初の5年間は基本的に善政として「天和の治(てんわのち)」と称えられていました。

赤穂浪士の吉良邸討ち入りから、浪士の切腹まで2ヵ月程期間があるのですが、この切腹の裁定までも幕閣と上記の学者たちで様々な意見があったと言われています。老中は夜盗の輩(やとうのやから)」同然だから「打ち首」にすべきだと一旦は決定していました。しかしこの決定に不満を持った側用人の柳沢吉保(やなぎさわよしやす)が徂徠に相談したところ「赤穂浪士の行為は、将軍綱吉が政務の第一に挙げている「忠孝の道」にかなったものだから、打ち首という盗賊同様の処分に処すべきではない。彼らに切腹を賜れば赤穂浪士の宿意も立ち、世上の示しにもなる」という趣旨の事を述べ、この意見を将軍綱吉に「上聞」したところ綱吉は大いに喜び、一転して切腹に決まったと言われています。

綱吉の善政が終わるのは、その実務執行者である大老・堀田正俊(ほったまさとし)が江戸城中で刺殺される事件が発生したことによります。この結果、綱吉は大老や老中といった実務執行者たちを遠ざけて、新たに側用人を設置、重用して将軍親政を開始します。また儒学の「忠孝の道」に影響されて母・桂昌院(けいしょういん)を従一位という前例のない高位を朝廷より賜わるなど特別な処遇を行いました。綱吉を有名にした「生類憐みの令」が貞享(じょうきょう)2(1685)年から始まりました。実は「生類憐みの令」は1本の成文法ではなく、135回も出された複数のお触れの総称です。何度も発せられたのはやはり出しても守られなかっただろうと思います。最初は「殺生を慎め」という訓令的な当たり前のお触れであったのですが、徐々にエスカレートして犬や猫、鳥はもちろん魚や貝、虫にまで及んで行ったものでした。因みに東京都中野区役所前には「犬屋敷跡」があります。最盛期には中野区役所の周辺を中心に、東京ドーム20個分の広さであったと言われています。

この「生類憐みの令」の発布については諸説あり、綱吉に後継ぎが無いことを憂いた母・桂昌院が親しくしていた僧に相談し、その結果としての勧めによるものが有力です。その派生として綱吉が戌年生まれであった為、特に犬を保護したものや当時捨て子が多かった為、その対策から始まったもの等もあります。この「生類憐みの令」の始まりは戦国の殺伐とした気風から脱却し、動物愛護を推進する意味や人命も含めて命を奪う行為は大罪にあたるといった意識を武士から庶民へと浸透させたかったものなのかもしれないですね。

加えて、綱吉の治世の評価が低いのは、晩年期に頻発した自然的な災害にもあると考えられます。飢饉や地震などで宝永(ほうえい)元(1704)年前後の浅間山噴火・諸国の洪水、宝永4(1707)年の宝永地震、富士山噴火、宝永5(1708)年の京都大火などであり、現代では治世の評価を左右するものとは考えにくいのですが、当時はこういった天変地異を「天罰=主君の徳が無い為に起こった」と捉える風潮が残っていたために、文献等の評価が低いものとなっているのも原因かと思います。現代でもここ数年様々な事件や天災が日本各地で起こっていますが、それも政治が原因であると思う人がある一定程度存在するのは現代でも変わらないですけどね。

しかし、綱吉の治世下は元禄文化【農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しく発展】が花開き、好景気の時代であったことから優れた経済政策を執っていたという評価もあり、初期における幕政刷新の試みはある程度成功しており、享保(きょうほう)の改革を行った8代将軍吉宗も綱吉の定めた「天和令」をそのまま「武家諸法度」として採用するなど、施政には綱吉初期の治世を範とした政策が多くあります。また吉宗は綱吉から「偏諱」として「吉」の字を受けていますし、綱吉に敬愛の念を抱いていたと言われています。

最後に愛知県岡崎市の徳川家菩提寺である大樹寺(たいじゅじ)には、徳川歴代将軍の位牌が祀られていますが、この位牌は亡くなった時の身長と同じサイズで作られているとされています。また徳川家の遺骨の学術調査によると位牌と遺骨の差は5㎝の誤差もないとされているので、綱吉の位牌が124㎝であることから、綱吉は当時の成人男性の平均身長が155㎝よりも極めて小さく低身長症だったのではと言われています。これを踏まえて綱吉自身もコンプレックスがあったと私は思います。将軍の権威を回復しようとしたこと、誰よりも率先して儒教の教えを幕臣に講義したり、朝廷をことさら重んじたこともその表れなのではないかと考えています。

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八幡太郎 (歴史ライター)

歴史が大好きで話し始めたら止まりません。 ここでは日本史ネタを気ままに綴っていきます。