さて、今回は今までと少し趣向を変えて、皆さんも大河ドラマをはじめ幾つかの時代劇を観たことがあるかと思います。その中でも何人もの俳優で放映されている江戸時代の名奉行と呼ばれる人物についてお伝えしたいと考えています。皆さんも良くご存じの代表的な3名の人物を今回はお伝えしたい思います。
まず初めは、八代将軍・吉宗に見出されて、江戸南町奉行になり『大岡裁き(大岡政談)』で有名な「大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ、以下「忠相」)になります。大岡氏は徳川家譜代の家柄で、一族で幾つもの旗本家があります。忠相はその中の一つである、1700石の大岡忠高(おおおかただたか)の四男として生まれ、同族の1920石の大岡忠真(おおおかただざね)の養子となりました。江戸時代は同族内での養子縁組は数多く行われていました。理由は家を存続させることが第一であり、それが幕府(徳川家)への御恩であったと言われていました。忠相は順調に旗本としての幕府内の役目を歴任し、六代将軍・家宣の時代に、「遠国(おんごく)奉行」と呼ばれる内の一つである「山田(伊勢)奉行」に就任します。この「山田(伊勢)奉行」では奉行支配の幕府領と紀伊徳川家領の間での係争が絶えず起こっていて、山田(三重県伊勢市)と松坂(三重県松阪市)との境界を巡る訴訟では、紀伊藩領の松坂に有利だった前例に従わず公正に裁いたと言われ、当時の紀伊藩主・吉宗がその公正な裁きぶりを認めたと言われています。ここで出来た知縁が吉宗が将軍になった際の江戸南町奉行への抜擢に繋がったと言われています。しかし、最近の研究では遠国奉行を経て江戸南町奉行という昇進コースは順当なものであり、60歳代で就任することが多かった町奉行に40歳代での就任もとりたてて抜擢人事ではなかったと指摘されています。これは後代に歌舞伎の題材を狙った作り話という説もあります。
しかし、奉行時代の忠相は吉宗が享保の改革と呼ばれる幕政改革に着手し、その一端を町奉行として江戸の都市政策に携わっていました。
町名主の減員などの町政改革や木造家屋の過密地域である町人域の防火体制再編の為、町火消組合を創設して防火負担の軽減を図り、さらに町火消組織を「いろは四十七組(のちに四十八組)」に再編成していました。瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立などを行いました。これ等の政策は一部町名主の反発は招いたものの、結果として江戸の防火体制は強化されました。俗に『火事と喧嘩は江戸の華』とよばれ、江戸は大火事が多く、火消しの働きぶりが華々しかったことと、江戸っ子は気が早いために派手な喧嘩が多かったと言われていました。忠相は吉宗の信頼も厚く順調に加増されて、江戸南町奉行の後には本来ならば大名が就任する寺社奉行を歴任し、最終的には1万石の大名となります。町奉行から大名になったのは江戸時代を通じて忠相のみでした。サツマイモで有名な青木昆陽(あおきこんよう)を書物奉行に任命し、飢饉対策作物として試作されていたサツマイモの栽培を助成したことや小石川養生所の設置に尽力したのは忠相でした。
続いては、劇中『火付盗賊改役、長谷川平蔵である。神妙に縛につけ』の名セリフで有名な鬼の平蔵こと「長谷川平蔵宣以(はせがわへいぞうのぶため 以下「平蔵」)」についてです。平蔵は400石の旗本・長谷川宣雄(はせがわのぶお)の長男として生まれます。実はこの父である宣雄も平蔵と呼ばれ、更に火付盗賊改役を歴任しています。親子二代で火付盗賊改役になっています。その後宣雄は京都西町奉行となり、京都で亡くなっています。青年時代の平蔵は放蕩無頼の風来坊で、「本所の銕(ほんじょのてつ ※幼名が銕三郎であったため)」などと呼ばれ、恐れられていたと言われています。この呼び名は劇中でもたまに出てきますね。
順調に出世をして42歳の時に火付盗賊改役に就任します。時は松平定信が寛政の改革を行っている時期になります。人足寄場(にんそくよせば 犯罪者の厚生施設)の建設を立案し、石川島人足寄場の設立などで功績を挙げました。しかしこの時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴えましたが、却下されて仕方なく、幕府から預かった資金を相場に投じるという方法で資金を得ました。辣腕とも言えますが、当時の道徳的には認められるものではなく、またこのような手法は田沼意次を思い起こさせるものであり、意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かったと言われています。事実、定信は自伝「宇下人言」の中で、敢えて名を呼ばず「長谷川某(はせがわなにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。
火付盗賊改役の本業としては、関八州を荒らしまわっていた大盗賊・神道徳次郎一味を一網打尽にして、勇名を天下に響き渡らせ、さらに江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕しました。非常に有能であるが幕閣(松平定信など)や同僚(同じ火付盗賊改役など ※この役は同時期に何名かが就任していた)からはあまり信頼されていなかったようで、出世はままならなかったようです。しかし、的確で人情味溢れる仕事振りには、江戸の町においては「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれて非常に人気があったようでした。
この火付盗賊改役は江戸時代に主に重罪とされた「火付け(放火)」「盗賊(押し込み強盗団)」、賭博を取り締まった役職で、明暦の大火(1657年)以後に放火犯に加えて、盗賊が江戸に多く現れたため、幕府がそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることとし、「盗賊改」を設置し更に「火付改」を設けたことに由来しました。ただ当初二つは統合されていませんでしたし、窃盗・強盗・放火などにおける捜査権は持っていましたが、裁判権は認められておらず、容疑者の裁定については老中の裁可を仰がなければならなかったもので、職権はかなり制限されたものになっていました。またこの役に就くものは多くが1年から2年で変わっていましたが、平蔵は8年間この役に就いていました。
最後はこの平蔵の住居跡(東京都墨田区菊川3-16 都営新宿線菊川駅すぐ)に居を構えた人物であり、「遠山の金さん」で有名な江戸北町奉行・遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと 以下「金四郎」)になります。金四郎は500石の旗本・遠山景晉(とおやまかげくみ)の子として生まれました。実は父・景晉は永井家からの養子で、金四郎が生まれた際に養父に実子が生まれていたため、養父の子と父が養子縁組を行った後に金四郎の出生届を提出していたとのことで、青年期にそういった複雑な家庭環境から金四郎は家を出て、放蕩生活を送っていました。この辺りは長谷川平蔵と同じですね。
父・景晉は遠国奉行の一つである長崎奉行を歴任した人物ではありましたが、石高は500石の旗本ではあったのですが、金四郎は4200石の堀田家の娘と結婚しました。江戸時代も現在も家柄などを結婚の際に気にする方は多くいますが、金四郎の結婚相手は実家の8倍の石高の旗本で釣り合いが全くとれないものでした。しかし、堀田家及び当主(義父)は金四郎の将来性を物凄く買っていたのだろうと思います。
父の隠居後は順調に出世と様々な役職を歴任し、47歳の時に江戸北町奉行に就任します。時は水野忠邦による天保の改革の開始される前の年でした。天保の改革は他の改革よりも規制や取り締まりが厳しく、その中でも町人に対する絞めつけは特に辛辣でしたので、市井の状況に敏感である町奉行として、町人の生活と利益を脅かすような極端な法令実施には南町奉行(矢部定兼 やべさだかね)と共同して、老中・水野忠邦や目付の鳥居耀蔵(とりいようぞう)に反対していました。水野が鳥居の進言を受けて、芝居小屋を廃止しようとした際に、金四郎はこれに反対して浅草猿若町への小屋移転だけに留めた。これに感謝した関係者がしきりに金四郎を賞賛する意味で、「遠山の金四郎」ものを上演したと言われています。歌舞伎の上演によって鳥居や水野との対立が「遠山=正義、鳥居=悪逆」という構図を作りあげていった。(但し、それ以前から鳥居は江戸っ子からの評判は悪かったようです。)
天保の改革にことごとく反対した金四郎も北町奉行を罷免させられ閑職に回されたりしていましたが、晩年に南町奉行に復帰しました。因みに同一人物が南北両方の奉行を歴任したのは異例なことであり、裏を返せば人材が枯渇していたということになると思います。これ以降の幕府は極端に人材不足が露呈していきます。この人材不足が結局のところ幕府崩壊へと繋がっているように思えます。家柄で要職についていた幕府機構にとって、外国からの脅威を国難ととらえ、政局運営をしていくためには様々な人材が必要であり、幕府は旗本に限らず、御家人や渋沢栄一のような農民からも志(こころざし)のある者を登用していきました。
この3名以外にも名奉行と言われていた人物は数多くいたかと思います。今回は時代劇などで頻繁に取り上げられ、皆さんにも馴染みのある人物ではありました。機会があれば皆さんが余り知らないような人物もお伝え出来たらと考えています。その際はお楽しみに。