さて、今回は以前「本能寺の変」についてお伝えした際に、併せて2020年の大河ドラマが明智光秀を主人公とした『麒麟がくる』になることも一緒にお伝えしましたが、ここでは光秀に関わる人物について述べていきたいと考えています。
その人物とは大河ドラマでその役を演じる役者の方が少しばかり世間を騒がせてしまった、織田信長の正室である「濃姫(のうひめ)」です。濃姫は美濃国(岐阜県)の戦国大名で「蝮の道三(まむしのどうさん)」と呼ばれた齋藤道三(さいとうどうさん)の娘で、「帰蝶(きちょう)」とも呼ばれ、光秀の従妹と言われています。濃姫と呼ばれた所以は「美濃国の姫」というところになります。濃姫の人生は信長に嫁いで以降不明な部分が多く、様々な憶測がたっています。夫である信長が今川義元(いまがわよしもと)を桶狭間(おけはざま)の戦いで破り、その後美濃国をその領土とした辺りまでは、幾つかの資料にもあらわれるのですが、その後は「離縁説」「死亡説」「戦死説」「生存説」と様々です。
私の願望として「生存説」「本能寺での戦死説」であると良いなと思っています。その理由としては信長には多くの側室がいて、多くの子供がいました。子供の数は男子12人、女子10人と言われています。その全てが側室との子供で、濃姫との子供はいなかったらしいのですが、私は濃姫との子供がいたのではないかと考え、その子供の行く末と信長とともに生きて、天下統一の偉業の為に信長を支えていて欲しいという願望からです。因みに信長は数多くの子供に変わった幼名を付けています。例として、「奇妙(きみょう)」「茶筅(ちゃせん・茶道において抹茶を点てるのに使用する茶道具のひとつで、湯を加えた抹茶を茶碗の中で混ぜるための道具)」「三七(さんしち・三月七日に生まれたため)」「坊(ぼう)」「酌(しゃく・母親が鍋という名であるため)」が男子で、女子では「五徳(ごとく・炭火などの上に設置し、鍋や薬缶などを置くための器具。具体的には炉【囲炉裏、火鉢、七輪、等々】の熱源上に置いて、鍋、薬缶、土瓶、熱瓶、焼き網などを乗せるために用いられる支持具をいう)」といったものがありました。
私が濃姫との子供ではないかと考えている子供は、次女の「冬姫(ふゆひめ)」になります。この冬姫についてはまた後程少しお伝えしますが、信長にとって濃姫は妻というよりも「同志」だったのではないかと考えています。信長にとって一大転機となった桶狭間の戦いをともに乗り越え、母親や弟に命を狙われた経験がある信長は、余り人を信じることがなかったと思われます。後には親戚となった妹・お市の方の夫である浅井長政(あざいながまさ)に姉川(あねがわ)の戦いで、背後から裏切られて命からがら撤退したり、家臣にも何度も裏切られていて(松永久秀【まつながひさひで】や荒木村重【あらきむらしげ】等)、最終的には本能寺で一番信頼していたと言われる光秀に襲撃され、命を落としました。
濃姫は身内にも裏切られてしまう信長を精神的に支え、時には信長に代わり多くの側室を纏め、子供たちの教育なども行っていたと思います。信長が秀吉の奥方「寧々」や前田利家の奥方「まつ」に書状を幾度となく送り、気を使っていたのは家臣の動向や変化をいち早く知る為、また家臣を内側から支えるのが奥方であると知っていたからだと思います。そんな信長ですから、自分の身内を纏めるのを最も信頼し、同志である濃姫に託していたと私は思っています。
また、信長の軍隊が強かった理由は「兵農分離」が挙げられます。当時の戦国大名は農閑期に他国へ攻め入るのがほとんどで、兵の主力が農民でしたのでそれがこの時代一般的でしたが、信長は家臣を城下に集め、戦闘専用の集団にしていったのです。その為、信長の軍隊は1年中どこかで戦える軍団となっていたので、信長不在時の守りは正室である濃姫がやっていたはずです。
濃姫は戦国三梟雄(せんごくさんきょうゆう・残忍で強い人)の一人と言われた齋藤道三の娘なので、性格的にキツイ部分や頑固な部分もあったかと思います。しかし、これは現代の私たちが文献や映画やドラマで見ている濃姫であって、本当の濃姫は違ったのではないかと思っています。信長自身もある史実によると毎日規則正しい生活で、食事は質素で下戸で甘いものが好きだったと記されていました。このことから予想すると、本来は穏やかな性格の人物で、濃姫もそんな信長と日々穏やかで、暖かな生活を送っていたのではないかと想像すると心も温かくなりますね。
最後に、私が濃姫の子供と思っている冬姫は、信長がその将来性と才能を最も期待した男子と結婚しています。その男子とは蒲生氏郷(がもううじさと)です。氏郷は信長の元に人質とし信長の元にいました。当時の氏郷は13歳の少年で信長に近侍(きんじ)していたのですが、ある武将が毎夜の軍談に深夜まで眠りもせず傾聴している姿を見て「蒲生の子は器量人だ。やがて大軍を率いる武勇の将になるだろう」と予言したと言われていました。後年になりますが、時の関白である秀吉は、信長が認めた器量人である氏郷を恐れていて、伊勢国松島から会津92万石に領地替えで移した際、「松島侍従(氏郷)を上方に置いておくわけにはいかぬ」と側近に漏らしたと伝わっています。天下人(秀吉)から恐れられた為に氏郷は40歳という若さで亡くなっています。これは秀吉によるものではないかと私は考えています。戦国時代は親兄弟、味方とはいえ自分の行く先に障害となると思われる者は暗殺されていました。氏郷の死後、冬姫は子供や孫の行く末を見守っていましたが、不幸にも蒲生家の無嗣断絶を見届けて亡くなっています。織田家に関わる女性たちは歴史上で一瞬の輝きを放って最後は悲しい結末になっている女性の方が多いように思います。
今の福島県会津若松市は幕末の会津藩、白虎隊などで有名ですが、その象徴である「鶴ヶ城(つるがじょう)」の名は氏郷の幼名「鶴千代(つるちよ)」にちなんでいますし、市名の「会津若松」は元々「黒川」と呼ばれていた地域でしたが、氏郷が移ってきて出身地の近江国(滋賀県)日野城(おうみひのじょう、別名・中野城)に近い馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ・現在の滋賀県蒲生郡日野町村井にある神社、蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の森」に由来し、同じく領土であった伊勢国松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われています。