岩崎彌太郎
皆さん、こんにちは。東京都などの1都2府1県に3度目の緊急事態宣言が発出され、まん延防止措置が適用されている自治体もあり、今年のゴールデンウィークも外出が制限されていて、幾つかの業界にとっては更なる打撃であり、それに対する保証がないことに憤りを感じている人たちが多くいるようです。この未曽有の事態に対応する行政(政府や自治体)の対応についても不満など感じている方々のことも連日報道されています。その日、その時で状況は変化するので、私たちは目の前のことに誠実に対処していくしかないのかなと思います。

さて、今回は絶賛放送中の大河ドラマの主人公「渋沢栄一」と対比して見られている同時代の人物、「岩崎彌太郎(いわさきやたろう)、以下「彌太郎」」について述べていきたいと考えています。皆さんは彌太郎の名前を聞くと多くの方が「三菱グループ(旧三菱財閥)の創業者」ということを思い浮かべると思います。実際その通りです。一代で現在にも繋がる三菱グループの礎を作った人物です。

現在の三菱グループの所属企業は4000社超、従業員およそ87万890人、売上高は全上場企業の7.7%にあたる69.3兆円で、保有資産は国の資産の6割を超える432.9兆円に上る巨大グループです。このグループには御三家と呼ばれる企業があり、「三菱商事」「三菱重工」「三菱UFJ銀行」がそれにあたり、三社とも「三菱村」と呼ばれる丸の内に本社を置いています。この3社をグループ組織の頂点に、「三菱金曜会」と呼ばれるグループ主要企業27社のトップ会合(親睦会)があります。この会ではグループ内の情報交換や三菱ブランドの保護などが行われていると言われています。

三菱グループ以外には、二木会(三井グループ)、白水会(住友グループ)、芙蓉会(芙蓉(安田)グループ)、三水会(三和・鴻池グループ)、三金会(第一勧銀グループ)と6大企業(6大銀行)グループと呼ばれるものがあります。

では、創業者である彌太郎は如何にしてこの企業グループの礎を築いていったのかを生い立ちから簡単に述べていきたいと思います。

彌太郎は1835年1月、土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市井ノ口)の地下(じげ)浪人・岩崎弥次郎の長男として生まれました。地下浪人とは土佐藩にあった武士の身分の一種で、武士階級は上士(じょうし・上級武士)・下士(かし・下級武士)に分かれていて、下士の中には郷士・用人・徒士など更に細かく分かれていました。

因みに坂本龍馬の家は元々商人で郷士の身分を買った家であると言われています。彌太郎の家は曾祖父の代にこの郷士の身分を売り、地下浪人になっていました。

彌太郎が飛躍を遂げる元となったのは、1858年当時蟄居中であった吉田東洋(よしだとうよう)が開いていた塾(少林塾)に入塾し、東洋の甥である後藤象二郎(ごとうしょうじろう)らの知遇を得、東洋が藩政に復帰して参政となるとこれに仕えたことによります。

この後藤との繋がりはこの後ずっと続いていきます。土佐藩は「開成館長崎商会」を窓口に武器商人・グラバーと取引をしていました。このグラバーは皆さんもご存じの長崎のグラバー邸で有名な方です。この長崎商会に彌太郎は後藤の命により主任として勤め、明治維新後には「九十九(つくも)商会」を立ち上げ、その経営者となりました。九十九商会は土佐藩から藩船3隻の払い下げを受け、貨客運航を始めます。この時期に鴻池家などに抵当として抑えられていた大坂の藩屋敷を買い戻し、ここに本邸を構え事業を営み、この地が三菱発祥の地となります。邸宅跡には現在石碑が建てられています。

1873年に「三菱商会」に社名変更し、翌年には本店を日本橋の南茅場町に移して、更に社名を「三菱蒸汽船会社」に変更します。併せて現在でも広く知られている三菱のマーク「スリーダイヤ」が作られました。この社名変更が示すように当初の三菱は輸送(運輸)を主力事業としていました。政府は外国船が日本の国内航路にまで進出していることに対して、三井・鴻池・小野組などに「日本国郵便蒸汽船会社」を設立させて、運航助成金や諸藩から摂取した蒸気船を与えるなど様々な援助をして対抗させていきますが、結果は捗々しくなかったようです。

一方で三菱の高知-神戸航路、東京-大阪間の輸送は上々の結果でした。この三菱と「日本国郵便蒸汽船会社」の争いは1874年の台湾出兵からその翌年の「日本国郵便蒸汽船会社」の解散まで続きます。

その後、両社は合併して「郵便汽船三菱会社」となり、海運業を独占していきますが、1882年渋沢や三井の益田孝(ますだたかし)、大倉の大倉喜八郎(おおくらきはちろう)などの反三菱勢力が投資して「共同運輸会社」を設立し対抗しますが、これも彌太郎の死後に合併して「日本郵船株式会社」となって現在に至ります。「日本郵船株式会社」は三菱にとって源流と言われています。

彌太郎が巨万の富を得るのは実は今でいうインサイダー取引によるものでした。それは新政府が樹立して紙幣や貨幣の全国統一化に乗り出した時のことです。幕府があった頃は各藩が独自に藩札を発行して藩内で流通させていましたが、そのそれぞれの藩札を政府が買い上げるという情報を事前に察知したので、10万両(幕末・1両=6,000~15,000円 6億~15億円、<参考>明治8年国家予算:歳入7,000万円、算出6,800万円)を都合して藩札を買い占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得ました。この情報をもたらしたのは政府高官となっていた後藤からで、三菱は当初から政商として暗躍していたのでした。

因みに彌太郎は政商として、政府の最大実力者・大久保利通(おおくぼとしみち)の信頼を得て、政府の絶大な保護と援助を与えられて三菱は発展していきました。

彌太郎と渋沢は経営スタイルや考え方などで対立関係にありました。しかし、心の底では二人共がお互いを認めていたのではないかと私は思います。二人の対立を象徴する出来事があります。「向島の対決」と呼ばれる大論争です。

時期は1878年~1879年頃になります。彌太郎の招待で向島の料亭で酒宴が開かれました。当初はお互い楽しんでいましたが、話しが「会社経営」についてとなると両者は真っ向から対立します。

権限とリスクは才能ある者に集中すべしという「独裁主義」で会社を築く彌太郎と多くの人の資本と知恵を結集する「合本主義(株式会社制度)」と儒教の精神に基づく道徳と経済の両立した「道徳経済合一説」を唱える渋沢。独自の資本主義に関する価値観で、新たな国づくりに挑んだ二人だからこその考えであったと思います。二人のやり取りを簡単に列挙してみます。

●欧米の経済の発展を見ても分かる通り、合本制を大いに普及させること以外にありません。合本制こそが国を富ませ、民のふところを豊かにする路である(渋沢)

◎合本制では「船頭多くして、船、山に登る」ことになる。事業はあくまでも1人の才能のある人間が経営も資本も独占して行うべき(彌太郎)

●経営者には才能ある人間を配するのには賛成です。しかし、資本と経営は分離するのが原則。合本制は資本を集めるのにも利益を多くの出資者に還元するにも適している。(渋沢)

◎合本制は理想論です。事業をやろうとする人間は、会社を経営して利益を独占できるからこそ、一生懸命働くんです。(彌太郎)

二人の意見や考え方は決して間違っていないと思います。

渋沢というと「論語と算盤」にあるように、儒教の道徳に基づく自制心や禁欲主義が強調されますが、それは少々語弊があると思います。そもそも「お金儲けに成功する富豪が出なければ国が富むことはない」とも言っています。だから渋沢は彌太郎のような人物もある意味歓迎し、認めています。ただ、国を富ますためには渋沢のように日本の産業全体をグランドデザインできる人も必要でした。つまり両者はお互い自身の長所を活かした経営手法を行ったのだと思います。

また、渋沢は決して禁欲主義ではなく、お金儲け自体を否定していたわけではなく、否定したのは「不義にして富む」こと、つまり不正な手段で利潤を追求することで、利潤追求は道義に則って行わなければならない、自分だけ良ければ良いという利己的な考えや独占的な方法は捨てるべきであると訴え続けたわけです。

彌太郎は政府の要請により1875年に霊岸島に三菱商船学校を設立(現在の東京商船大学)したり、また自社の人材育成に近代的なセンスがあり、1878年神田錦町に「三菱商業学校」という今で言うとビジネススクールを設立し、三菱の屋台骨を支える幹部候補生を育成しています。

彌太郎が愛した庭園があり、高田藩榊原家江戸屋敷(旧岩崎邸庭園)、深川清澄の屋敷(清澄庭園)、駒込の柳沢家庭園(六義園)などを購入しています。これらは文化的にも景観的にも素晴らしいもので、特に六義園は都内でも屈指の桜の名所としては現在も多くの方が毎年訪れています。

三菱の礎を築いた彌太郎の後を継いで拡大・発展させたのは、弟の弥之助(やのすけ)でした。弥之助が鉱山、造船、地所、銀行などを多角経営を行った結果、三菱は大財閥へ成り上がっていったのです。この弥之助が実はとても優秀で、第4代日銀総裁や貴族院議員になっていたほどでした。

最後に現在の我々日本人にも心に留めておかなければならないと感じることが出来る、岩崎家の家訓(彌太郎の母による)をお伝えして終わりたいと思います。

  • 天の道にそむかない
  • 子に苦労をかけない
  • 他人の中傷で心を動かさない
  • 一家を大切にする
  • 無病の時に油断しない
  • 貧しい時のことを忘れない
  • 忍耐の心を失わない