皆さん、こんにちは。遅くなりましたが、明けましておめでとうございます。多分に趣味の域に達してしまっていますが、今年もお付き合いの程宜しくお願いします。オミクロンの爆発的な感染により急激な感染者数の増加はまた医療機関への重い負担になっています。感染しないようにとは言うものの、現状では難しく誰もが感染してしまう状況かと思いますが、感染をしないように各自で出来ることを継続していくしかないと思います。

さて、今回も前回に引き続き、数字に纏わる事件や人物などを述べていきたいと思います。今月は「ナンバー2」についてです。私がこの「ナンバー2」で一番最初に思い浮かべるのは、「豊臣秀長(とよとみひでなが)、<以下「秀長」>です」。私の中では歴史上最高の「ナンバー2」であると思います。兄である秀吉を一途に生涯支え、秀吉を唯一無二である天下の覇者にしたのはこの秀長と言っても過言ではありません。その為、秀長の存在は大きく、亡くなった時の秀吉や豊臣家、更には天下に及ぼす影響が甚大なものでありました。この点は後程詳しく述べていきたいと思います。

秀長は1540年尾張国愛知郡中村(名古屋市中村区)に生まれました。秀吉とは3つ違いの異母弟です。幼少時に秀吉が家を飛び出していたので、面識は少なかったと思われます。また秀長の若い頃についても詳しいことは余り分かっていません。秀吉が信長に仕えるようになっても、しばらくは農民のままでいたはずです。おそらく秀吉がある程度出世して部下を持てる身分になった頃に秀吉から懇願されて家臣になったかと思われます。もしかしたら家臣第1号だったかもしれないですね。ただその時期もはっきりしていません。1574年の織田軍による伊勢長島一向一揆との戦いには、秀吉の名代として秀長が羽柴軍を率いて出陣していますので、それ以前であることは確かだと思われます。ちょうどこの時期に秀吉は自分の居城である長浜城の築城に力を入れていて、秀長を代わりに出陣させたものとみてよいかと思います。

秀吉にとって、この弟・秀長の存在は大きな意味を持ちました。自分がもう一人いるというか、分身としての役割といっていいのかもしれません。例えば、1577年から始まった毛利輝元との戦いでは、秀吉が主に山陽道の播磨(兵庫県)・備前(岡山県)の平定に力を注いでいたのに対し、秀長は山陰道の但馬(兵庫県北部)・因幡(鳥取県)の平定を進めています。信長死後、秀吉が信長の後継者として天下統一の戦いを進める過程でも、その傾向は顕著にみることができます。

1585年の四国・長曾我部攻めの時は初めは秀吉自ら総大将として出陣する予定だったのでしたが、直前に病気を患ったため、代わりに秀長が総大将となり、見事に四国平定を成し遂げています。更に1587年の九州攻めでは秀吉が本隊を率いて肥後(熊本県)から薩摩(鹿児島県)に攻め入り、秀長は別動隊を率いて日向(宮崎県)から薩摩に攻め入っています。

秀長の能力は豊臣家での家政だけでなく、天下を手中に収めたことにより、海千山千の戦国大名を抑え、政権を運営していくための調整役も担っていきます。その背景にはやはり秀吉が居たのですが、内政や外交さらに軍事的な能力を兼ね備えていたからだと思われます。

「内々之儀は宗易(千利休)、公儀之事は宰相(秀長)存候」と秀吉が豊後(大分県)の戦国大名・大友宗麟(おおともそうりん)に伝えたという有名な言葉があります。この言葉が示すように秀吉にとって秀長と利休が豊臣政権の重要な担い手でありました。天下統一事業とその後に続く豊臣政権は類まれな秀吉の才能もありますが、実際は秀長と利休の力も大きかったと思われます。

内政だけでなく外交など様々な事柄を秀吉の代行者として行った多忙さが原因だったのかも知れませんが、1590年頃から病気がちになってしまい、秀吉の天下統一事業の総仕上げとも言うべき、その年の小田原攻めには出陣出来ないまま、翌年1591年に亡くなってしまいました。この秀長の死によって、それまで順調に回っていた豊臣家の歯車が狂い始めます。同じ年1591年千利休の切腹、1592年朝鮮出兵(文禄の役)、1595年豊臣秀次の切腹と立て続けに「秀吉晩年の暗黒事件」と言われる出来事が起こっています。これら全てに秀長が生きていたら止められたと私は思っています。

この時の豊臣家の実務部隊の筆頭は石田三成ですが、この三成の基本的な政権運営方針が権力の「中央集権」でした。この傾向は秀長死後に顕著にあらわれています。その為に大名ごとに自身の領地の運営を任せる「地方分権」の大大名である徳川家康などとぶつかり始めます。その流れが最終的には関ヶ原の戦いに繋がっていると思います。この緩衝材になっていたのが秀長であり、利休であったのでした。

ここからは歴史のタブー「もしも」について私の考えを述べていきたいと思います。

秀長は51歳で亡くなっていますが、母親や秀吉などの兄弟がどの位の生涯であったか、秀吉62歳、母である大政所76歳、姉(秀次などの母)92歳、妹である朝日姫(家康の後妻)47歳という感じで、この家族の平均寿命は63歳となります。その為仮説は秀長が63歳まで生きていたらどうなっていたかを考えていきたいと思います。

あと秀長が12年、1603年まで生きていたら、まず初めに利休の切腹はないでしょうね。豊臣家の存続は秀長も望んでいたはずですので、徐々に豊臣家の「中央集権」を進めていったのは考えられます。ただ、急激な政策は必ず反対勢力の抵抗を受けることを秀長は理解しています。信長死後の秀吉の強引な政権奪取によって織田家の重臣との争いを生み、その前線で様々なことを経験した者として、如何に調整が大名との折衝で必要かを感じていました。逆に三成にはその経験があったとしてもバックに「秀吉」が控えているのを最大限に使った為に大名は従わざるをえなかったのだと思います。秀吉に「物申す」ことが出来る秀長と秀吉の「忠実な官僚」である三成のどちらを人は信じたでしょうね。 

また、朝鮮出兵(大陸制服)をかつて信長が構想していたと言われていますが、私はそうは思っていません。理由は信長の構想が軍事力で世界を征服しようとしたのではなく、貿易によって世界と渡り合っていきたい(貿易立国)というものであったと考えていたと思うからです。信長は貿易や商業が国を豊かにすると考え、最初にその為の政策を行った戦国大名でした。この考え方は後のヨーロッパで行われた「富とは金(や銀、貨幣)であり、国力の増大とはそれらの蓄積である」という重商主義的な政策と同じ考え方でした。一方、秀吉は死後の信長をあらゆることで自身に良いように使った人物でもあります。本能寺の変を起こした明智光秀の研究も進んでいますが、光秀も被害者だと思われます。歴史が勝者によって書き換えられ、勝者にとって不味いものは消されたのでした。

秀長に後見された秀次の政策は秀吉にとって頼りになったでしょうし、秀頼が生まれていても謀反などは考えるはずもなく、秀長と共に秀頼の養育もしっかり行ったはずです。秀長の眼が三成などに行き届いていれば、加藤清正や福島正則などの武将も豊臣家から離れることもなく、秀頼を守護する体制は強固になっているでしょうし、秀吉個人の人間性や信頼関係で結ばれていた大名との関係性も続いていたと思います。秀次という人物について幾つかお伝えしますが、本格的に統治を行った近江八幡では町割りなどの行政施策を積極的に行っていて、現在でも尊敬されていることを鑑みると相応の力量で文武両道の人物であったと言われています。実は利休の弟子であり、キリスト教の宣教師たちは「この若者は叔父(秀吉)とはまったく異なって、万人から愛される性格の持ち主であった。特に禁欲を保ち、野心家でなかった」「穏やかで思慮深い性質である」などと記している(ルイス・フロイス「日本史」など)のを見ますと秀次も後の世にかなり部分を書き換えられた人物だったのかもしれないですね。

また1600年の関ヶ原の戦いは無いと思いますが、「もしも」の話しに仮というのも可笑しな話ですが、秀長死後に家康が豊臣家に戦いを挑んだとしても家康は勝てなかったでしょうね。12年の間に秀長・秀次ラインのよって作られた豊臣政権は盤石になっていたでしょう。結果として家康が幕府を開くことが出来たとしても時期はもっと後になるでしょうし、人材的にも相当のダメージを受けて幕府開設となったことでしょう。そんなダメージを受け疲弊した中で幕府が長続きするとは到底思いませんし、それこそ家康死後にまた覇権争いが全国で起こってしまうのではないかと考えてしまいます。若くて野心的で力のあった大名は数多くいましたので、充分に考えられることですね。

偉大なる「ナンバー2」の早過ぎる死が歴史の歯車を大きく動かし、その為に大きく発展していった者と一方でどん底や悪い方になってしまう者も居ます。秀長の死はそういった大きな分岐点になったのではないかと思います。最後に秀長の家臣中には、藤堂高虎(とうどうたかとら・伊勢津藩主)、中井正清(なかいまさきよ・初代京都大工頭)、小堀政一(こぼりまさかず<小堀遠州>・近江小室藩主)といった築城や造園に長じた人物が多く登用されています。この当時の城づくりや町づくりの第一人者であり、その事業が重要であり、その為の人材を集めていた先見性や政策構想も秀長にはあり、長く続いた争乱によって壊された土地や民衆の心を再生することまで考えていたように思われます。秀長という人物のような「ナンバー2」がこの後生まれていないのは悲しくもあり、それほど稀有な存在であったのだと思われます。